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【其ノ参】東海道五十三次を歩く(川崎宿→神奈川宿)

今回も東海道五十三次踏破の旅。

この日午前中は品川宿から川崎宿までを歩き、午後は神奈川宿を目指します。

小土呂橋跡

午後のスタートは川崎宿の中心地、小土呂橋の交差点から。

ここは江戸時代、新橋堀と呼ばれる幅五メートルほどの用水があり、小土呂橋という橋が架けられていたとのこと。

交差点にはその説明とともに、昭和六年当時の写真を拝見することができました。

現在は親柱が残されていて、少しだけをしのぶことができます。

旧東海道の小川町通りを歩きます。

すでに静岡では見られない、かに道楽の看板が懐かしい。かつて静岡にいた蟹は足が優雅に動いていたと記憶していますが、もう寿命なのかじっとしていました。

川崎宿京口跡

現在、まいばすけっとになっているこの場所は、江戸時代の川崎宿の京側の入り口でした。

店の入り口には説明書きがあり、それによると幕末にはこの場所に外国人警護のための第一関門があり、この先保土ヶ谷まで十九箇所設置されていたとのこと。

余談ですが、ここまでの道中、まいばすけっとなる店舗がやたら多い。

静岡ではまったくないこの店舗、調べてみるとイオングループの小型スーパーマーケットらしいです。

なるほど、イオングループのマックスバリューは大型駐車場を備えた郊外型。電車社会の都心では駐車場が無い、まいばすけっとを展開しているのですね。

芭蕉句碑

少し歩くと芭蕉句碑がありました。

うーん、筆記体で何が書いてあるのかさっぱりわからぬ・・・。

説明の看板によると、

「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」

と書いてあるそうです。

松尾芭蕉は1694年5月に伊賀(三重県)に帰還する際、川崎宿に立ち寄り、角弟たちとの惜別の思いを句にしたとのこと。

芭蕉はこの五ヶ月後に亡くなったらしいです。

芭蕉句碑を過ぎると京急本線と並走して、

その先の踏切を横断して斜め左が旧東海道です。

少しだけ分かりずらいですが、旧東海道標石があったら間違いなし。

現在は鉄道により湾曲するこの道ですが、江戸時代は先ほどの川崎宿京側入り口からこの先の市場村(現横浜市)まで、八丁(870m)の長い直線が伸びており、八丁堀と呼ばれていました。

市場上町の交差点を過ぎると市場村(現横浜市)。東京の中心から横浜まで歩いてきたとは、我ながら驚きです。

熊野神社

程なくして右手にあるのが熊野神社。

徳川家康が江戸入府の際に、武運長久(戦での幸運が長く続くこと)を祈願した神社だそうです。

市場の一里塚

熊野神社から少し歩くと、市場の一里塚がありました。

江戸日本橋より五里目(19.6km)になる一里塚。ここまで四つの塚はすでに撤去されていましたが、五つ目にして初めて現存する一里塚と出会うことができてちょっと感激。

市場の一里塚には稲荷神社が祀られていて、武州橘樹郡市場村一里塚の碑がありました。

申堂・下町稲荷

市場の一里塚の筋向かいには小さなお地蔵さま・・・ではなく、1754年建立の青面金剛像が安置されている庚申堂がありました。

そのお隣には下町稲荷があります。

金剛寺

さらに下町稲荷の先には、東国八十八ケ所霊場第十番札所の金剛寺がありました。

そして坂道の先には立派なアーチ橋が見えてきました。鶴見川橋です。

かつては鶴見橋と呼ばれていた橋は、橋上から大山箱根連山が望める景勝地だったそうで、橋の際には茶屋があり賑わっていたといいます。

うーん、今日は曇り空で大山箱根連山は見えなかった。残念。

鶴見橋関門旧跡

鶴見川橋を渡ると、左手に碑。

こちらは、先に紹介した外国人警護のための十九の関門のひとつがあった場所でした。

鶴見川を渡って以降は整備されたキレイな道路になり歩きやすい。

寺尾稲荷道道標

そんなキレイな道路に、馬上安全寺尾稲荷道の碑が建てられています。

横には説明書きがあり、それによると、この道は馬術上達や馬上安全の祈願で知られる寺尾稲荷社へ向かう道との分岐点で、多くの重要道へつながる大切な分岐でもあったらしいです。

江戸時代の馬といえば現在のクルマに相当する重要な移動手段。現在で言う、交通安全提唱の地ということなのかな。

さらに歩くと右手に鶴見図書館があり、旧東海道の地図とこの付近の説明書きがありました。

その後、街並みにはビルが建ち並ぶエリアになり、鶴見区の中心街に。

右手に鶴見神社の鳥居が見えます。

信楽茶屋跡

またも旧東海道の説明書き。この辺りは川崎宿と神奈川宿の間の間の宿として賑わい、この辺りには地域でもっとも大きな茶屋の信楽茶屋があり、米饅頭や竹皮包みの梅干、塩漬け生姜が名物だったらしい。

江戸時代の旅人は江戸からこの辺りまで一日で歩いてきたそうですが、たくさん歩くと塩分や甘い物が食べたくなったのでしょうね。

鶴居堂跡

現在不動産屋さんになっているこの場所は、江戸時代に鶴見堂という薬屋を営んでいた黒川四郎左衛門の屋敷があった場所(店舗はこの先のベルロードにあった)。

苦楽丸という咳の特効薬が有名だったらしいです。

店舗は黒川薬局として昭和二十年代まで営業をしていたとのことで、その写真を見ることができます。

鶴見堂を過ぎると、京急鶴見駅を右手に見ながらその横のガードをくぐり、

斜め右のベルロード鶴見商店街へ向かいます。

サボテン茶屋跡

ベルロードに入るとすぐに目を引く洋風の建物がありますが、こちらは江戸時代にサボテン茶屋があった場所。

店舗の前には仙人掌(サボテン)茶屋跡『みぎにひだりにつのを出して世の中を見たるもおかしさぼてんの茶屋』と書かれた碑がありました。

店主が長崎から持ち帰ったサボテンが大きく育ち名所になったそうです。

今見てもおかしななカタチをしているサボテンなので、江戸時代はさぞ奇妙な植物に見えたことでしょうね。

そのままベルロードを歩き、国道15号線を横断します。

生麦の魚河岸通りに入ります。

国道駅

右手に見えてきたのがJR鶴見線の国道駅入り口。

改札までのガード下の歩道は昭和を感じさせるレトロな雰囲気で、多くの映画の撮影地として有名な場所です。

先の戦争で機銃掃射による銃弾の跡があることでも知られていますが、残念ながら確認できませんでした。

引き続き旧東海道の道幅を残す魚河岸通りを歩きます。

海岸線は遠くなりましたが、今なお魚屋が軒を連ねる街道でした。

道念稲荷神社

鳥居が並ぶこちらの神社は道念稲荷神社。

疫病が流行った時、萱で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に投げ放ったという伝説があるそうです。

道念稲荷神社を過ぎると左側に巨大な工場が見えてきました。こちらはGLPという会社の横浜工場らしい。

住宅街に突如現れた要塞のような建造物にかなりの違和感を感じました。

生麦事件発生場所

この辺り生麦という地名ですが、生麦といえば生麦事件があまりにも有名。その発生場所はここらしく、説明看板が立っていました。

参勤交代で江戸に向かう薩摩島津藩一行がこの場所に差し掛かった時、横浜から来た馬の遠乗りを楽しむイギリス人四人と遭遇。

列を乱された島津藩士が、「無礼者!」と四人に斬りかかり、イギリス商人のリチャードソンが死亡し三人が負傷する事件でした。

その後イギリスは薩摩藩を攻撃し、薩英戦争と呼ばれました。

イギリスの近代兵器や文明に圧倒された薩摩藩は、倒幕開国へと方針を転換し、明治維新、日本の近代化への道を促進させました。

そんな歴史的事件の場所がここだと思うと、感慨深いです。

生麦事件発生場所の後は、左手に巨大な生麦ジャンクションが張り出し、右手には古くからの民家が並ぶミスマッチな情景。

こんな古き良き時代を残すたばこ屋さんもあり、おかしな感じでした。

そして左側にキリンビールの横浜工場が見えてきました。キレイに整備された工場内の公園を見ながら、気持ちよく足を進めます。

生麦に麦酒(ビール)の工場とは・・・キリンビールさん、やっぱり地名を意識してこちらに工場を?

そして旧東海道は首都高速の下をくぐります。

生麦事件碑

首都高速下のキリンビール敷地内には生麦事件碑があります。

説明板によると、この場所は、先ほどの事件現場で斬られたリチャードソンが落馬してとどめを刺された場所らしく、明治十六年に鶴見の黒川荘三が遭難碑を建てたとのこと。

そんな生麦事件碑の先で国道15号線にふたたび合流。

マンションが居並び、多くのクルマが行き交う道を進みます。

子安の一里塚

ここは子安の一里塚があった場所。先ほどの市場の一里塚から一里(約4km)で、江戸日本橋から六里目(約15km)の地点になります。

参考にしている『ちゃんと歩ける東海道五十三次』という本によると、この付近に解説があったようですが、掲げられていた建物はすでに取り壊されていました。

西洋野菜栽培とトマトケチャップのふるさと碑

国道沿いにこれまで見てきた碑とは違う、一風変わった赤茶色の碑がありました。

これは西洋野菜栽培とトマトケチャップのふるさと碑。

慶応二年(1866年)子安村の堤春吉が西洋野菜の栽培を始め、明治二十七年に清水興助がトマトケチャップの製造を開始した場所だそうです。

なるほど、トマトケチャップを連想する赤色にしたわけか。

そして旧東海道は新子安橋の下をくぐります。

長延寺跡

旧東海道から一本道を入り、京急神奈川新町駅前の神奈川通東公園に立ち寄ります。

ここは神奈川宿の江戸側口にあった長延寺の跡地。

その後、この地はオランダ領事館になりました。

幕末に横浜港が開港されると、各国の公館を建設する間がなく、急遽神奈川宿の寺院を領事館にしましたが、こちらの長延寺もそうだったのでしょうか。

さあ、ここから神奈川宿。足が少々だるくなってきましたが、本日の目的地はあと僅かです。

神奈川宿に入ると寺院が続きます。

こちらは良泉寺。

そして、旧東海道を一本入って能満寺。

そのとなりには神明宮があります。

ふたたび旧東海道に戻ります。

時刻は午後5時が近づき、だいぶ暗くなってきました。

歩みの記録(川崎宿→神奈川宿)

ということで本日の目的地である神奈川宿の中心地、神奈川二丁目交差点に到着しました。

では、Apple Watchのフィットネスアプリのデータから、川崎宿から神奈川宿までの歩みの記録を見ていきましょう。

まずは地図から。

日本橋から川崎宿まではずっと南下してきましたが、川崎宿からは西の方向に舵を切りました。

最終目的地は西方向なので、やっと京都三条大橋に方向を目指している感じになりました。

続いてこちらが詳細の記録です。

川崎宿を出発したのが13時31分で、神奈川宿に到着したのが16時57分ということで、3時間30分を掛けて踏破したことになります。

宿間の距離を真っ直ぐ歩くと8.9kmなのですが、歩いた距離は10.43km。

今回は道を間違えませんでしたが、寄り道が多かった影響でだいぶ距離が伸びました。

上昇した高度は17mとありますが、この区間の道はほぼ平坦で、坂を登っていた感じはありません。

これまでの区間に比べて心拍数がやや高いのは、昼に青島ビールをいただいた影響です・・・。

ということで今回は以上。次回はここ神奈川宿から出発したいと思いますので、興味のある方はお付き合いくださいね。

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大福
モータースポーツをこよなく愛す、セナプロ世代の四十代。 サーキット観戦デビューは、1996年フォーミュラニッポン第7戦の富士スピードウェイ。ど迫力のエキゾーストノートとタイヤの焼ける匂いを実感し、それまでテレビでしか観戦してこなかった事を悔やむ。以降、F1・WEC・スーパーGT・スーパーフォーミュラなどを富士スピードウェイ・鈴鹿サーキットを中心に多数観戦する。