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ライカを持って東海道五十三次を歩く【第5回】(保土ヶ谷宿→戸塚宿)

今回は東海道五十三次踏破の旅の続き。

江戸日本橋を出発し、品川宿、川崎宿、神奈川宿と歩き、この日(2025年11月2日)の午前中に保土ヶ谷宿に到着。

そして、午後の部は保土ヶ谷宿を出発して、戸塚宿を目指す。

途中、江戸を出発した旅人にとっての最初の本格的な坂、権太坂を登ることになる。

では、今日もライカM11を首からぶら下げて、保土ヶ谷宿の中心地、西町商店街の入り口から出発!

問屋場跡

こちらが保土ヶ谷宿の問屋場があった場所になる。

問屋場とは、幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬や幕府公用の書状などの通信、大名行列の宿泊の手配などを行なっていた施設になる。

高札場跡

問屋場のすぐ先には、幕府や領主の法令を書き記した木の札を掲示した、高札場があったという。

その大きさは幅二間半、高さ一畳だったとのこと。

金沢道道標

そして左手のマンションの一階の茶屋の前に行くと、

江戸時代のものと思われる道標が四基も並んでいる。

この場所は金沢浦賀への追分で、金沢横丁と呼ばれたそうだ。

その道標の先の東海道本線の踏切を横断。

踏切先の先が丁字路になり、

本陣跡

旧東海道は右に折れるのだが、その丁字路の突き当たりにあるのが保土ヶ谷宿の本陣になる。

こちらが苅部家が勤めた保土ヶ谷宿の本陣。

こちらには、なんと現在も本陣の立派な門が残っていた。

江戸日本橋からこれまでにいくつもの本陣跡を見てきたが、当時の建造物の一部が残っていたのは初めて。これが江戸時代の門なのか・・・感動!

また、苅部家は問屋も兼ねていて、当時の藏も残されていてさらに感激。

苅部さん、残してくれてありがとう!

脇本陣(大金子屋八郎右衛門)

道を挟んで向こう側には、大金子八郎右衛門が勤めた脇本陣があた。

おそらくこのマンションのあたりだろう。

脇本陣(藤屋四郎兵衛)

そしてすぐ先にも脇本陣。こちらは藤屋四郎兵衛が勤めたそうだ。

振り返ったこの辺りかな。

すぐ先にも水屋与右衛門が務めた脇本陣があった。保土ヶ谷宿は本陣と脇本陣が横一線で並んでいたようだ。

その様子がわかる図が、上の写真のマシンションの前に掲げてくれていた。

うーん、イマイチよく見えない・・・。

旅籠屋(本金子屋伝左衛門)跡

そして極め付きがこちら・・・なんと当時物の旅籠だ!

江戸時代が終焉してからすでに150年以上が経過しており、江戸日本橋からここまで現存する本陣や旅籠はなかったが、初めて現存する旅籠に巡り会えた。

本金子屋の旅籠は明治二年に建てられたので、厳密には江戸時代ではないのだが、明治二年といえばまだ東海道本線が敷かれていなかったので、旧東海道の徒歩での往来は江戸時代と同じはず。

この木造建築は、そんな賑わう東海道をずっと見てきた、数少ない建物なのだ。

その先には風情のある茶屋もあり、保土ヶ谷宿はむかしの面影を残す、いい雰囲気の宿場跡でだった。

保土ヶ谷の一里塚

少し川沿いを歩くと、復元された保土ヶ谷の一里塚がある。

小ぶりにはなっていますが、本日も地域の方が整備なさっていて、とても見栄えが良かった。

江戸日本橋から八里目(32km)。だいぶ歩いてきた。

上方見附跡

保土ヶ谷の一里塚の横にあるのが上方見附跡。保土ヶ谷宿の京口になる。

ここには当時のような土居が設置されていて、いい雰囲気の小道だった。

この先に備えて、岩崎ガードの歩道橋を渡り、歩道右側に移動する。

江戸日本橋からずっと東急本線と並行してきたが、この辺りからは東海道本線と並走。

そして保土ヶ谷二丁目交差点で斜め右に入る。

樹源寺

少し歩くと右手に見えてきたのが樹源寺。

先ほど見た保土ヶ谷宿本陣の苅部家の妻が日蓮宗になったため、身延山久遠寺の末寺として開山したとのこと。

稲荷神社

樹源寺の先には、赤鳥居が連なる稲荷神社がある。

かなり錆た年季の赤鳥居の脇には、青面金剛像が祀られていた。鶴見でもお会いしましたね。

そして元町ガードの交差点を左折するのだが、その前にコンビニでおむすびと飲み物を買い、お手洗いをお借りする。

最後にタバコを一服して、この後に控えるこの旅で初めての本格的な坂道に備える。

この時は護岸工事が行われていた元町橋。この付近は、保土ヶ谷宿設立以前の宿場だったそうだ。

さあ、ここを右折したら、日本にある多くの坂の中でも特に有名な、あの坂道が現れる。

権太坂

そう権太坂だ。ここがその権太坂の登り口になる。

江戸日本橋から海沿いを歩いてきた旧東海道だが、ここで初めての本格的な坂道。とはいえ急坂というほどではなく、苦労を強いられることはない。

数百メートル登ると権太坂陸橋に到達し、横浜横須賀道路を跨ぐ。

ちなみに権太坂というと箱根駅伝の花の2区の走路として全国的に有名になったが、駅伝はこの道ではなく、旧東海道の南東を走る国道1号線を走る。

陸橋を渡るとまた坂道になる。

権太坂標石

そして坂道の途中に権太坂の標石と説明書きがあった。

江戸時代は長く険しい坂道だったようだが、現在は整備されて、だいぶ歩きやすくなっている。

ところで、権太坂って変な名前だとお思いの方、多くない?

その由来はというと、むかし、旅人が耳の悪い老人に対して、「道の名前は?」と尋ねたところ、老人は自身の名前を聞かれたと勘違いして、「権太」と答えたのが始まりだとか。老人のお名前だったのだ。

坂道は左手に見える権太坂小学校を過ぎた辺りで終わり。坂の距離としては1kmほどなので、体力を極端に奪われることはなかった。

その後は緩い登り下りを繰り返しながら歩く。

そしてこの丁字路を右折する。

境木立場茶屋若林家

突き当たりを曲がり少し歩くと、右手に牡丹餅が有名だった境木立場茶屋若林家がある。こちらのお宅の表札を見ると、なんと若林家。

若林家は茶屋本陣と同じくらいの格式があったと言われていたそうだが、現在も広いお庭にドイツの高級車があり、今もなお格式高いお宅のようだ。

なお、往時は、西に富士、東に江戸湾が見える景勝地だったが、現在は建物だらけで見えなかった。

境木地蔵尊

若林家のすぐ先に境木地蔵尊がある。

こちらには延命地蔵尊が安置されているそうだが、権太坂を登り切り少し疲れたので、ベンチに座りながらナムナム。

武相国境之木

境木地蔵尊の場所は武蔵と相模の國境ということで、武相国境モニュメントが設置されていた。

江戸時代には国境のしるしとして堺杭(傍示杭)と呼ばれる木柱が建てられ、境木というこの辺りの地名の由来になったそうだ。

旧東海道は、その先の境木地蔵尊前の交差点を左折し、

今度は下り坂になる。

焼餅坂

江戸時代、この下り坂の傍には茶屋が軒を連ね焼餅が売られていたことから、この坂は焼餅坂(別名牡丹餅坂)と名付けられた。

権太坂を長く登ってきたので下りも長いものと思ったが、あそこに見える品平橋であっという間に終わってしまい少し残念。

品濃の一里塚

その先にあるのが品濃の一里塚。

一里塚とは、一里塚ごと道の両側に土を盛り、その上にエノキなどの木を植えた、現在のキロポストと同じ役割。

ここは、今も両側に土盛りと木が現存する、数少ない一里塚だ。

向かって右手の塚に登ってみたが、木は成長していて林のようになっていた。

一里塚が出来てから400年以上経過すると、人工的に作った小山も自然に帰るのだ。

都会の超高層ビルヂングに囲まれた江戸時代の遺産。

さらに開発が進む横浜市の中心地だが、ここだけは、今後も残してもらいたいものだ。

碁盤の目のように整備された横浜市の道路だが、旧東海道は緩やかに曲がっていて、ここが古くからの街道だということが歩いていてよくわかる。

福寿観音

右手に見えたのが、火盗災難除けに御利益があるという福寿観音。

旧東海道からは裏手になり、環状2号線やビル群の方向を向いていた。

江戸時代は旧東海道を向いていたが、時代とともに主要道路が変化して、観音様の向く方向が変わったのだろうか。

福寿観音を出たら右に曲がり、ふたたび旧東海道へ。

その後も左右に緩やかに曲がりながら進む旧東海道。超都会の中だが、この道路だけは時代が止まっているようだ。

そしてこの分岐を右に折れて道を下り、

ここで道なりは右だが、まっすぐ歩行者専用の道に行き、

歩道橋を渡り突き当たりを左へ。

階段を下りたらすぐに右折して、

その次を左折。

この辺りは、右に左に忙しなく曲がり複雑だが、案内看板があるので案外迷わない。

そんな折、私と同業の旧東海道を歩く方おじさんに追い抜かれるのだが、彼の手には、やはり『ちゃんと歩ける東海道五十三次』があり、この後、本で紹介されている名所のたびに彼と鉢合わせして苦笑い。

旧東海道を歩く同業者の、『ちゃんと歩ける東海道五十三次』の所持率が異常に高いのが笑える・・・。

一応Amazonリンクを貼っておく↓。

そして、国道1号線を横断して、斜め右方向に進み、国1と並行しながら歩く。

本日は曇り空だが、正面に富士山が見えて気持ちが上がる。

そしてこちらの高架橋の横を歩き、

国道1号線と合流する。

しばらく国道1号線を歩き、不動坂の交差点手前で斜め左に曲がるのが旧東海道。

赤煉瓦建物

そして右手に煉瓦造りの趣のある建物が見えてきた。

ここは斉藤満平がイギリス人からハム製造法を学び、明治二十年に日本で初めてハム製造を行った鎌倉ハムの旧工場になる。

歴史の深さを感じる、いい雰囲気の工場だった。

旧東海道は鎌倉ハム工場の先のこちらの信号機を右に曲がり、

次の丁字路(舞岡入口交差点)を左折する。

宝蔵院

ブリヂストン横浜工場を右手に見ながら歩くと、左にあるのが宝蔵院。

寛永九年(1632年)造立の不動明王や、境内には扇塚等があるそうだが、この日はすでに五里(20km)近くを歩き疲れていたので、お参りはお許しいただく。

江戸見附跡

こちらは戸塚宿の江戸側の見附があった場所。

碑と説明書きがあり、この日は地域の方が松の剪定や碑の清掃を行っていた。

この方たちのおかげで、私たちがこの旅を深く楽しめるのだ。ありがとう見知らぬおじさん。

戸塚(吉田)の一里塚

江戸見附の先のこの辺りに戸塚の一里塚(吉田の一里塚)があったそうだ。

江戸日本橋から十里目にあたる一里塚だが、説明書きによると、江戸時代の旅人は十里(40km)の道のりを一日で歩いたそうで、この先の戸塚宿で最初に宿泊をしたとのこと。

ここに来るまでに三日も要した、軟弱な現代人の私・・・。

そして江戸時代は大橋と呼ばれていた吉田大橋を渡り、

渡った先を斜め左に進むのが旧東海道になる。

善了寺

こちら善了寺は戸塚宿の鬼門魔除け。

本堂には木製の阿弥陀如来像があるそうだが、疲労でこの坂道を登るのが厳しいので、本日はここで手を合わせるのみ。

静岡への帰り道、電車を間違え新幹線に大遅刻してキャンセルをしたのは、お参りをしなかったからだと反省したのだった・・・。

そして戸塚駅の跨線橋を登り、

この線路の真上が戸塚宿の中心地。本日もお疲れ様でした。

歩みの記録

では、いつものようにApple Watchのフィットネスアプリを使い、本日の歩いた記録を見てみる。

まずは地図から。

保土ヶ谷宿から戸塚宿までは、曲がる場所が多くかなり複雑な道のりだったが、しっかりと案内板が設置されていて、迷うことなく辿り着くことができた。

続いては本日の旅の詳細。保土ヶ谷宿と戸塚宿の距離は二里九町で、現在の実測では9.3kmだが、今回歩いた距離は約11kmと1.7kmも多く歩いた。

道に迷ったわけでもなく、疲れていたので寄り道もほどほどだったが、だいぶ余分に歩いたようだ。

時間はというと、11時10分に出発して到着したのが15時9分ということで、約4時間もかかった。その原因は坂道。今回は初めての本格的な坂道、権太坂があったことで、上昇した高度は120mにもなり、それが大幅に時間がかかった要因になる。

ということで、今回は以上。次回はここ戸塚宿から出発して藤沢宿を目指すので、興味のある方は下のバナーからお付き合いを。

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ABOUT US
大福
モータースポーツをこよなく愛す、セナプロ世代の四十代。 サーキット観戦デビューは、1996年フォーミュラニッポン第7戦の富士スピードウェイ。ど迫力のエキゾーストノートとタイヤの焼ける匂いを実感し、それまでテレビでしか観戦してこなかった事を悔やむ。以降、F1・WEC・スーパーGT・スーパーフォーミュラなどを富士スピードウェイ・鈴鹿サーキットを中心に多数観戦する。