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カムバックした6人のF1チャンピオンの復帰後の成績

かつてルノーで2度のチャンピオンを獲得した後フェラーリやマクラーレンのエースとして活躍し2018年に引退したフェルナンド・アロンソが、2021年にアルピーヌからF1に復帰。その後アストンマーティンに移籍したアロンソは、40歳を超えてもかつてのような切れ味鋭いドライビングを披露し、健在ぶりを我々ファンに見せてくれています。

そんな、アロンソと同じようにF1でチャンピオンを獲得した後引退をして、その後復帰したドライバーが他にもいました。

そこで今回はF1復帰した6人のチャンピオンを紹介し、復帰後の成績を見ていこうと思います。

ニキ・ラウダ

出典:autosport Web
DATA
  • 1度目の引退・・・1979年
  • ブランク・・・2年
  • 復帰・・・1982年
  • 2度目の引退・・・1985年
チーム勝利数ランキング年齢
1982マクラーレン25位33歳
1983マクラーレン010位34歳
1984マクラーレン51位35歳
1985マクラーレン110位36歳

フェラーリで2度のチャンピオンを獲得したニキ・ラウダはエンツォ・フェラーリとの確執でチームを去り、ブラバムへと移籍するも1979年を最後にF1を引退。その後は実業家として自身の航空会社であるラウダ航空の経営に専念していました。

1981年にマクラーレンのロン・デニスとそのタイトルスポンサーだったマールボロのジョン・ボーガンからF1マシンのテストに招かれ、1982年からマクラーレンで現役復帰を決めます。

復帰した1982年シーズンは、ラウダの引退後に普及したラジアルタイヤへの違和感から当初は思うような走りができませんでした。しかしそんなラジアルタイヤへも徐々に慣れはじめ、第3戦のアメリカ西グランプリで復帰後初優勝を達成。第9戦イギリスグランプリでも勝利して復帰初年度はシーズン2勝、ランキング5位という成績でした。

1983年シーズンはマシントラブルから7度のリタイヤを喫しランキング10位に甘んじるも、1984年は年間を通じてチームメイトのアラン・プロストと熾烈なチャンピオン争いを演じます。

速さで勝るプロストに対して予選では1勝15敗と大きく負け越しましたが、レースでは着実に上位でフィニッシュをし、結果復帰後初のチャンピオンを獲得します。

しかし1985年はシーズン序盤でマシントラブルが頻発し、早々にチャンピオン争いから脱落。第10戦の地元オーストリアグランプリでこの年限りでの引退を発表しました。発表の翌戦オランダグランプリで生涯最後の優勝を飾り、そのシーズン終了後に2度目の引退をしました。

結局ラウダは、2シーズンのブランクの後に4シーズンF1に参戦し、優勝を8回記録してチャンピオンを獲得したため、復帰は成功と言えるでしょう。

アラン・プロスト

DATA
  • 1度目の引退・・・1991年
  • ブランク・・・1年
  • 復帰・・・1993年
  • 2度目の引退・・・1993年
チーム勝利数ランキング年齢
1993ウィリアムズ71位38歳

次に紹介するのはニキ・ラウダから次代のF1スターの座を引き継いだアラン・プロスト。

ただ、プロストの1度目の引退はラウダの時とは違います。

1991年、すでに3度のチャンピオンを獲得していたプロストは、走らないフェラーリに手を焼いていました。

そのシーズン終盤の日本グランプリ終了後に、「今のフェラーリはカミオン(大型トラック)だ!」と発言しフェラーリ首脳の逆鱗に触れ、最終戦を待たずにフェラーリを解雇。

フェラーリを解雇されたプロストは、リジェを買収し自らのチームを結成しようと試みたりしたが、実現には至らず、1年間浪人をすることになります。

そして当時ダントツのトップチームだったウィリアムズと接触をして、1993年から同チームへの加入を発表します。

1993年もウィリアムズは圧倒的な速さを誇っていましたが、シーズン序盤は雨に祟られ、元来ウエットレースを苦手としていたプロストは苦戦を強いられます。

しかし第4戦サンマリノグランプリからは本領を発揮し、8戦で7回もの勝利を記録。ハイペースでポイントを稼ぎ取ります。

しかもその期間、唯一勝てなかったモナコグランプリは、スタートでフライングをしてペナルティストップを命じられ、その際にエンジンストールをしてトップから2週遅れとなるも、最下位からファステストラップを連発した結果、なんと4位でフィニッシュしました。

そんな圧倒的優位なマシンを手に入れ、チャンピオン争いで首位を独走するプロストでしたが、終盤戦はライバルチームもハイテクを満載しウィリアムズのマシンの優位性が少なくなってきたことや、自身がハイテクマシンに完全にアジャストできなかったこともあり、徐々に優勝ができなくなります。

プロスト自身も自らの速さに陰りを感じたのでしょう。ヨーロッパラウンドの最終戦であるポルトガルグランプリを前に、この年限りでの引退を発表。最終戦オーストラリアグランプリを最後にF1をを去りました。

プロストは今回紹介する他の4人のドライバーとは違い、引退ではなくトップチームでのシートがなくなったことによる1年間の浪人であり、復帰後は最高のチームでチャンピオンを決めて、1年限りで身を引きました。

ナイジェル・マンセル

DATA
  • 1度目の引退・・・1992年
  • ブランク・・・1年
  • 復帰・・・1994年
  • 2度目の引退・・・1995年
チーム勝利数ランキング年齢
1994ウィリアムズ19位40歳-41歳
1995マクラーレン041歳

ウィリアムズに所属していた1980年代後半、類まれな反射神経と驚くほどの一発の速さで、当時の四天王(セナ・プロスト・マンセル・ピケ)の一角として活躍したナイジェル・マンセル。

彼は何度もチャンピオン争いに絡みながらもシリーズを通しての安定感がなく、同郷のスターリング・モスになぞられて無冠の帝王と呼ばれていましたが、1992年にウィリアムズで悲願だったチャンピオンを獲得します。

翌年も同チームと契約をしたいと思っていたマンセルでしたが、圧倒的な戦闘力を誇っていたウィリアムズに乗りたいと、アイルトン・セナやアラン・プロストが名乗りを上げ、マンセルの翌年の契約は難航します。

結果、政治的な駆け引きに疲れたマンセルは、「私の力の及ばない理由により、今シーズン限りでF1からの引退を決めた」と発言し、翌年からアメリカのCARTシリーズへ戦いの場を変えます。

1993年はCARTでチャンピオンになり、翌年も同シリーズから参戦していましたが、1994年にセナが事故でこの世を去り、F1人気低下を懸念した当時のF1界のドンであったバーニー・エクレストンは、人気回復のためにマンセルの復帰を持ちかけます。

その結果CARTシリーズとバッティングしない第7戦フランスグランプリでスポット参戦すると、予選で2位になり、マンセルは40歳になってもなお衰えを知らない走りを披露します。

その後CARTシリーズ終了後に行われたF1の終盤3戦に復帰し、最終戦のアデレードではポールトゥーウィンを達成。

1995年にはマクラーレンからF1に本格復帰を決めるも、コクピットが狭いと不満を漏らし開幕2戦を欠場し、第3戦から参戦します。しかし戦闘力の低いマシンに気を落とし、第4戦スペイングランプリ終了後にチームを離れ、事実上F1を引退しました。

次のページでは、2010年以降に復帰した3人のチャンピオンの成績を紹介します!

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大福
モータースポーツをこよなく愛す、セナプロ世代の四十代。 サーキット観戦デビューは、1996年フォーミュラニッポン第7戦の富士スピードウェイ。ど迫力のエキゾーストノートとタイヤの焼ける匂いを実感し、それまでテレビでしか観戦してこなかった事を悔やむ。以降、F1・WEC・スーパーGT・スーパーフォーミュラなどを富士スピードウェイ・鈴鹿サーキットを中心に多数観戦する。