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バブル期の日本で沸き起こったF1ブームを振り返る

F1ブームという言葉をご存知だろうか?

それは日本がバブル経済真っ只中だった1987年から1994年にかけて発生した日本の社会現象だ。

マクラーレンホンダに乗るアイルトン・セナや日本人初のF1フルタイムドライバーの中嶋悟が人気の中心で、その他アラン・プロストやゲルハルト・ベルガー、ナイジェル・マンセルやネルソン・ピケ、日本人では鈴木亜久里や片山右京が人気を博していた時代。

日本グランプリにおいては地上波のしかもゴールデンタイムに放送され、多くの日本企業がF1チームのスポンサーとして名を連ねた。

そこで今回は、F1ブーム期にF1ファンになった私が、当時のことを振り返ってみたいと思う。

10年ぶりのF1日本開催

鈴鹿サーキット

F1ブーム到来のきっかけは10年ぶりのF1日本グランプリ復活に由来する。

その鈴鹿サーキットでのF1開催までの経緯をまずは紹介しよう。

F1日本グランプリは1977年のレースで大きな事故が発生して、富士スピードウェイは翌年以降の開催を断念する。

しかし当時の日本グランプリのプロモーターだったTBSは、翌1978年以降も開催を続けたいと思っていたらしく、鈴鹿サーキットで開催できないかという話があったという。

そこで鈴鹿サーキットとTBSの代表者がロンドンへ出向き、バーニー・エクレストン(当時すでにF1運営のトップ)と会ったが、交渉は決裂した。しかしその後もFIAの安全委員の委員長と交渉を重ねていた。

そんな中、鈴鹿サーキットの親会社であるホンダが1983年からF1に復帰し、早々に活躍をする。

すると逆にヨーロッパ側(FIA?)からJAF経由で鈴鹿サーキットでF1を開催しないか、と誘いを受け、バーニー・エクレストンと再度会って、1984年から1985年にかけて交渉を進める。

当初は1985年に開催を目指していたが、その年は開催を取り下げられるも、1986年12月に合意に至り、晴れて1987年シーズンの開催に至った。

そのはじめて鈴鹿で行われた日本グランプリの観客動員は、鈴鹿サーキット開場以来最高の112,000人(決勝日)が詰めかけた。

その後も来場者は増え続け、ブームのピーク時にはF1チケットの倍率が40倍とも言われていた。

F1ブーム期の日本グランプリ観客動員数の推移

決勝日週末合計前年比
198711.2万人24.7万人
198812.1万人23.3万人-1.4万人
198913.2万人28.3万人+5.0万人
199014.1万人31.6万人+3.3万人
199114.8万人33.7万人+2.1万人
199215.0万人33.2万人-0.5万人
199315.1万人35.0万人+1.8万人
199415.5万人35.7万人+0.7万人
20198.9万人12.2万人土曜日程中止

※最下段は2019年の来場者数

日本人F1レギュラードライバーの誕生

日本人初のF1レギュラードライバーである中嶋悟
鈴鹿サウンドオブエンジン2016にて

F1の主役はチームでもなければ自動車メーカーでもなく、やっぱりドライバーだ。

イタリアを除く多くの国では、母国のチームや自動車メーカーが活躍してもそれほど注目はしないが、母国のドライバーが参戦することで活性化する。

そのため日本人初のフルタイムF1ドライバーの誕生がF1ブーム到来の大きな要因だ。

そのドライバーとは言わずもがな中嶋悟だ。

星野一義とともに日本のモータースポーツのトップドライバーとして活躍した中嶋悟は、1984年からホンダF1のテストドライバーを務めるようになり、ホンダの大きな後押しもあり1987年にロータスホンダから34歳でF1にデビューする。

しかし、当時のF1マシンのギアチェンジはステアリングを離してのHパターンで、そのため片手で操作することの多いステアリングにはパワステも無く、現代では考えられないほどの体力を必要としていたため、34歳でデビューした中嶋にとっては非常に厳しいレースが多かった。

だが当時は、日本人の代表が世界と戦っている姿を見ているだけで嬉しかった。

また中嶋悟は、結果を残せないレースでも絶対に言い訳しなかったところも、日本人らしくて本当にカッコよかった。

彼の人柄もF1ブームに拍車をかけたのだろう。

その後中嶋悟に続き多くの日本人がF1に参戦することになる。

F1ブーム期に参戦した日本人ドライバー

ドライバー参戦時期所属チーム
中嶋悟1987-1991ロータス ティレル
鈴木亜久里1988-1994ラルース ザクスピード
服部尚貴1991コローニ
片山右京1992-1997ラルース ティレル ミナルディ
鈴木利男1993ラルース
野田英樹1994ラルース
井上隆智穂1994-1995シムテック アロウズ

※全戦予備予選不通過

地上波全戦中継開始

F1が日本でブームになるきっかけとして、フジテレビが全戦に渡り中継を行ったことも大きいだろう。

日本におけるF1の放映権は1986年までTBSが保有していたが、月に1度のダイジェスト番組だけだった。

1987年から日本グランプリが再開されるのと、中嶋悟がF1にフル参戦を発表したことにより、フジテレビは日本グランプリの放映権を取得しようとFIAと交渉するも、FIAの方針によりシーズン全戦の放映権を取得することとなる。

そして1987年シーズン開幕戦のブラジルグランプリからダイジェスト放送ではなく、すべてのレースで実況中継を行い、徐々にF1がモータースポーツファンだけでなく一般の日本人にも知れ渡ることとなる。

日本グランプリにおいてはゴールデンタイムに放送され、ブーム最高潮の1991年の視聴率は20%を超えており、深夜に放送された海外のレースでも10%近い視聴率があった。

古舘伊知郎の功績

フジテレビが行っていた日本のF1中継は、1989年に大きな転機を迎える。その転機とは、古舘伊知郎が実況陣に加わったこと。

古舘伊知郎はそれまでプロレスの実況で人気を博しており、F1でもプロレス中継同様に大袈裟なリアクションと独特な表現でF1の人気獲得に大きく貢献した。

また、通常スポーツ実況では実況者が一部の選手に肩入れするようなことはタブーとされているが、古舘伊知郎はドライバーをヒーロー(善玉)とヒール(悪玉)に例え、ヒーローのアイルトン・セナのライバルをヒールとして取り上げた。

すべてのドライバーにあだ名を付けることが有名で、

  • 音速の貴公子=アイルトン・セナ
  • 女好きチロリアン=ゲルハルト・ベルガー
  • 妖怪通せんぼジジイ=ルネ・アルヌー
  • 犬も歩けばチェザリスに当たる=アンドレア・デ・チェザリス
  • 振り向けばブーツェン=ティエリー・ブーツェン
  • 刻み納豆走法=中嶋悟

などは、多くの日本人が今も覚えているだろう。

それは、古くからのモータースポーツファンの一部にとっては受け入れられなかったが、この時代に多く存在したF1初心者にとっては非常にわかり易い表現で、F1ブームの火付け役として今尚語り継がれている。

次のページでも、まだまだあの頃のF1ブームを振り返っていきます!

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モータースポーツ撮影歴18年。腕に覚えは全く無いが、知識だけは豊富なワタクシぴぴが、レース撮影について偉そうに解説します。




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ぴぴ
モータースポーツをこよなく愛す、セナプロ世代の四十代。 サーキット観戦デビューは、1996年フォーミュラニッポン第7戦の富士スピードウェイ。ど迫力のエキゾーストノートとタイヤの焼ける匂いを実感し、それまでテレビでしか観戦してこなかった事を悔やむ。以降、F1・WEC・スーパーGT・スーパーフォーミュラなどを富士スピードウェイ・鈴鹿サーキットを中心に多数観戦する。 一眼レフデビューは2001年頃、CANON EOS7(フィルム機)。腕に覚えは全くないが、年数だけはそこそこ長い。 【一眼レフ遍歴】 CANON EOS 7 → CANON EOS kiss N → CANON EOS 60D → CANON EOS 7D MarkⅡ → CANON EOS 5D MarkⅣ & SONY α7R Ⅲ 【所有カメラ】 CANON EOS 5D MarkⅣ SONY α7R Ⅲ SONYサイバーショット DSC-RX1R 【所有レンズ】 CANON EF100mm-400mm f/4.5-5.6L IS Ⅱ USM CANON EF70-200mm f/2.8L IS Ⅱ USM CANON EF24mm-70mm f/4L IS USM CANON EF50mm f/1.2L USM CANON EF85mm f/1.4L IS USM SONY FE24-105mm F4 G OSS