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日本のトップフォーミュラで複数回チャンピオンを獲得した8人のドライバー(1973-2021)

日本のトップフォーミュラの歴史は長く1973年の全日本F2000選手権からはじまり、その後全日本F2選手権、全日本F3000選手権、全日本選手権フォーミュラニッポン、全日本スーパーフォーミュラ選手権(全日本選手権スーパーフォーミュラ)と名称を変えながら日本一速い男決定戦として続いてきた。

そんな約50年の歴史を誇る日本トップフォーミュラは過去に何人ものチャンピオンを排出してきたが、その中で複数回チャンピオンに輝いたドライバーはたったの8人。

1度でも難しいとされる激戦の日本トップフォーミュラで複数回チャンピオンを獲得することの難しさは、この人数を見れば一目瞭然だ。

ということで今回は複数回日本トップフォーミュラでチャンピオンを獲得した8人のドライバーを紹介しよう。

引退選手など敬称についてなんて書けばいいのか迷ってしまう。

〇〇元選手?それとも〇〇氏や〇〇さん?

どうもしっくりこないので、少々失礼にも感じるが今回は現役選手を含めすべての方の敬称を略させていただく。

もちろん心の中ではしっかりと敬意の念を込めてます。

星野一義

にこやかな表情でサインをする星野一義
2017年スーパーフォーミュラ第3戦にて

チャンピオン獲得回数 6回

  • 1975年(全日本F2000選手権)
  • 1977年(全日本F2000選手権)
  • 1978年(全日本F2選手権)
  • 1987年(全日本F3000選手権)
  • 1990年(全日本F3000選手権)
  • 1993年(全日本F3000選手権)

日本のトップフォーミュラでもっとも成功したドライバーといえば星野一義だろう。

星野一義は2輪のレースで名を馳せると、1969年に日産ワークスドライバーのテストに合格したのを機に4輪に転向する。

そして1974年に当時の日本トップフォーミュラだった全日本F2000の最終戦にスポット参戦し、いきなり3位表彰台を獲得。

そして翌1975年の第2戦からシリーズにレギュラー参戦して、早くもその年のチャンピオンに輝いた。

1976年には当時のトップチームだったヒーローズレーシングに移籍すると、1977年に2度目の王者に輝き、翌年は全日本F2と名前を変えたシリーズで3度目のチャンピオンになる。

しかしその後は永遠のライバルとなる中嶋悟の台頭により、何年にも渡りシリーズ2位に甘んじることになる。

星野一義が久々にチャンピオンに返り咲いたのが、日本のトップフォーミュラが全日本F3000に名前を変えた初年度の1987年。

この年はライバルである中嶋悟が日本を去りF1に進出した年だった。

40歳を超えても星野の速さは衰えを知らず、1990年には10戦中6戦で勝利を上げ、5度目のチャンピオンを獲得。

そして1993年には後にフェラーリF1ドライバーとなるエディ・アーバインとの熾烈な争いを制し、自身6度目となる生涯最後のチャンピオンに輝いた。

エディ・アーバインはF1初優勝を記録した1999年オーストラリアグランプリの記者会見の席で、

「日本にはホシノというとんでもない速さのドライバーがいて、なかなか勝たせてもらえなかった」

「今ここに自分がいられるのはホシノさんのおかげだよ」

と語っていることからも、星野一義は40歳を過ぎても外国のトップドライバーをも唸らせる速さだったことが窺える。

そう、星野一義は紛れもなく日本一速いレーシングドライバーだったのだ。

中嶋悟

往年のティレルのレーシングスーツを着てトークショーをする中嶋悟
2018年鈴鹿サウンドオブエンジンにて

チャンピオン獲得回数 5回

  • 1981年(全日本F2選手権)
  • 1982年(全日本F2選手権)
  • 1984年(全日本F2選手権)
  • 1985年(全日本F2選手権)
  • 1986年(全日本F2選手権)

その星野一義のライバルであった日本人初のフルタイムF1ドライバーとなる中嶋悟も、日本のトップフォーミュラで5度のチャンピオンに輝いた伝説のドライバーだ。

中嶋悟は高校時代にレーシングカートをはじめ、1975年には当時のジュニアフォーミュラであるFL500でチャンピオンを獲得するも、慢性的な資金難でレースをやめようかと悩んでいた。

しかし1976年にレーシングエンジンの名チューナーとして有名だった松浦賢の目に留まり、1977年に星野一義のチームメイトとして名門ヒーローズレーシングに加入し、当時のトップフォーミュラだった全日本F2000に参戦を開始する。

全日本F2と名前を変えた翌1978年にはシリーズを席巻するが、1978年後半にモータースポーツライセンスの発行をJAFからイギリス王立自動車クラブ(RAC)に切り替えたため、当時の規定である『外国ライセンスのドライバーはポイント対象外』というルールのため、第5戦と第7戦の2位のポイントが除外された。

この2度の2位のポイントが加算されていたらポイントランキングでトップだったため、1978年は幻のチャンピオンとなった。

1978年はヒーローズレーシングから生沢徹のi&iレーシングに移籍し、このチームで3年目となる1981年に自身初の全日本F2チャンピオンに輝き、1982年にも6戦4勝で連覇を達成した。

その後1984年から古巣のヒーローズレーシングに復帰(車体はヒーローズ、資金は中嶋企画という契約形態)すると、1986年までに3連覇を達成した。

この日本トップフォーミュラ3連覇の偉業は、長いの歴史の中でも中嶋悟を措いて他にはいない。

その3連覇を置き土産に、中嶋悟は日本人初のフルタイムF1ドライバーとして世界に旅立った。

日本のフォーミュラ史では星野一義が最強と謳われることが多いが、中嶋悟が日本で活躍した1980年代は間違いなく彼が最強だったのだ。

中嶋一貴

コクピットに乗り込む中嶋一貴
2018年スーパーフォーミュラ第4戦にて

チャンピオン獲得回数 2回

  • 2012年(全日本選手権フォーミュラニッポン)
  • 2014年(全日本選手権スーパーフォーミュラ)

そんな中嶋悟の御曹司である中嶋一貴も日本のトップフォーミュラで2度のチャンピオンを獲得する名ドライバーだ。

父中嶋悟はホンダドライバーとして活躍したが、長男の中嶋一貴はトヨタ系のフォーミュラトヨタレーシングスクールからレーシングドライバーとしての道を歩む。

その後、全日本F3からF1直下のGP2に参戦し、2007年の最終戦でウィリアムズからF1にデビュー。

その後2009年までF1に参戦した中嶋一貴は、2011年から当時のトップフォーミュラであるフォーミュラニッポンに参戦を開始する。

そう、父とは違い中嶋一貴が日本のトップフォーミュラにデビューしたのはF1参戦の後なのだ。

デビュー戦ではいきなり3位表彰台に上がり、その翌戦には初優勝記録し、さすが元F1ドライバーだと周囲に知らしめた。

そして参戦2年目となる2012年には2勝をあげて、フォーミュラニッポン最終年のチャンピオンになった。

スーパーフォーミュラと名称を変えた2013年と翌2014年もシーズンで2度優勝し、2014年には2度目の日本トップフォーミュラ制覇を達成。

だが世界耐久選手権との掛け持ちでドライビングのアジャストは難しく、またレースが重なる週末には幾度となく欠場をすることもありその後は低迷。

そして2021年を最後に惜しまれつつもレーシングドライバーを引退し、現在はトヨタガズーレーシングヨーロッパ(TGR-E)の副会長を務めている。

F1の世界ではグラハム・デーモンのヒル親子やケケ・ニコのロズベルグ親子と親子揃ってのチャンピオンは居るが、日本のトップフォーミュラでは悟・一貴の中嶋兄弟が唯一で、彼らはともに複数回の王者になっているのだ。

本山哲

引退後は監督としてスーパーフォーミュラのB-MAXを指揮する本山哲
2018年スーパーフォーミュラ第4戦にて

チャンピオン獲得回数 4回

  • 1998年(全日本選手権フォーミュラニッポン)
  • 2001年(全日本選手権フォーミュラニッポン)
  • 2003年(全日本選手権フォーミュラニッポン)
  • 2005年(全日本選手権フォーミュラニッポン)

前述の星野一義の愛弟子で2代目日本一速い男と呼ばれた本山哲は、日本のトップフォーミュラで歴代3位の4度のチャンピオンを獲得している。

本山哲の両親がレーシングカートのサーキットを経営していたため、彼は幼少期からレーシングカートに乗っていた。

1990年に全日本F3に参戦し6年目の1995年に選手権2位に入ったことで、翌1996年に当時の日本トップフォーミュラであったフォーミュラニッポンにデビューする。

そして1998年にチームルマンに移籍すると、初優勝を含む年間3勝を上げて初のチャンピオンを獲得する。

その後2000年に当時のトップチームだった星野一義率いるチームインパルに移籍し、同チームで2001年には4勝を上げ2度目のチャンピオンに輝くと、2003年も5勝して3度目の王者に、そして2005年にも3勝をしてチームインパルでは3度目、自身としては4度目の王者となった。

日本国内でこれだけの実績を上げながらF1に参戦できなかったのは、師匠である星野一義と同じく本山も日産系のドライバーだったことと、F3で6年もの歳月を過ごしたため、成功した年齢が20代後半から30代という年齢にあったのだろう。

それでも日本グランプリでジョーダンのマシンでフリー走行に参戦したり、日産と資本関係のあるルノーのセレクションに参加し、F1参戦を探っていた。

日本トップフォーミュラで複数回王者になったドライバーは残り4人!
次のページで紹介します。

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大福
モータースポーツをこよなく愛す、セナプロ世代の四十代。 サーキット観戦デビューは、1996年フォーミュラニッポン第7戦の富士スピードウェイ。ど迫力のエキゾーストノートとタイヤの焼ける匂いを実感し、それまでテレビでしか観戦してこなかった事を悔やむ。以降、F1・WEC・スーパーGT・スーパーフォーミュラなどを富士スピードウェイ・鈴鹿サーキットを中心に多数観戦する。