先週は東海道五十三次の前半の花形、小田原宿から箱根宿までを歩きましたが、途中から雨が降り出し、箱根路は修行に・・・。
正直、かなりキツかったのですが、今後忘れられないであろう程の経験になりました。
さて、今回は箱根八里の後半、箱根宿から三島宿までの区間を歩きます。
雨に祟られた先週とは違い、年末年始の長期連休中なので、天気の良い日を選んで挑みました。
では、前回の到着地である、箱根関所の入り口から出発します。
ザックリ見出し
- 1 箱根関所
- 2 本陣はふや跡
- 3 箱根駅伝ミュージアム
- 4 山の神
- 5 芦川の石仏群
- 6 向坂・赤石坂・釜石坂・風越坂の石畳
- 7 静岡県へ
- 8 接待茶屋の一里塚
- 9 徳川有徳公遺蹟碑
- 10 かぶと石
- 11 明治天皇御小休趾碑
- 12 念仏石
- 13 雲助徳利の墓
- 14 駒形諏訪神社
- 15 宗閑寺
- 16 芝切地蔵
- 17 山中城址
- 18 箱根八里碑と馬頭観音
- 19 空中東海道
- 20 馬頭観音
- 21 笹原の一里塚
- 22 こわめし坂
- 23 松雲寺
- 24 史跡法善寺旧址碑
- 25 出兵馬記念碑
- 26 山神社
- 27 六地蔵
- 28 臼転坂
- 29 普門庵
- 30 宗福寺
- 31 初音ケ原松並木
- 32 錦田の一里塚
- 33 愛宕坂
- 34 庚申堂
- 35 三嶋大社
- 36 問屋場跡
- 37 歩みの記録
箱根関所

ということで、先週の到着地である箱根関所にやってきました。
雨と霧に見舞われた先週から一転、本日は雲の隙間から時より太陽が顔を出します。

先週は霧でまったく見えなかった関所入り口横の芦ノ湖もご覧の通り、今日はしっかり見えてます。
さて、関所とは何かというと、交通の要所に設置され、人や荷物の行き来を調べたり、通行税(関銭)を徴収したりした場所になります。
旧東海道ではここ箱根関所と新居関所の二箇所に設置され、脇街道の気賀関所と含めて東海道三大関所と呼ばれました。
では、箱根関所に入ってみましょう。

江戸口御門から入り、右手にあるのが大番所になります。
ここは関所の一番主要な場所で、通行するに人々(特に女性)の取り調べや監視を行う役人詰所でした。
その向かい側には足軽番所(写真撮り忘れました)がありました。

そしてこちらが京口御門。
江戸時代の雰囲気がよく再現されており、映えスポットとして日本人はもとより、外国人にも非常に人気のあるスポットだということがよくわかりました。
ちなみに場内の建物内に入るには観覧料がかかりますが、柵外からの撮影や通り抜けだけならば料金はかかりません。

京口御門を出ると、和の雰囲気がある商店街を抜けて、

高札看板を再現した箱根関所の看板を右に曲がり、

国道1号線に合流します。
本陣はふや跡

国道1号線に入り、すぐ右側に箱根ホテルがありますが、ここが江戸時代箱根宿に六軒あった本陣の一つ、本陣はふやがあった場所です。
樹齢四百年のカエデがあるそうですが、宿泊しないと見れないのか、正面玄関からは確認できませんでした。
箱根駅伝ミュージアム

箱根ホテルのすぐ先に箱根駅伝ミュージアムなるものがありました。
今回の旅では基本的に江戸時代やそれ以前にあった施設などを紹介していますが、箱根といえばやっぱり駅伝ですよね。

ここには歴代の名場面の写真や記録、選手の愛用品や優勝杯などを紹介展示しているそうです。
この日は12月29日ということで、数日後には多くの駅伝ファンが足を運ぶことでしょう。さて、来年はどこの大学が優勝するのか、楽しみですね。

旧東海道はこの交差点を右に曲がるのですが、その前に信号左手の場所に立ち寄ります。
山の神

歴史を感じる山の神の石碑・・・箱根駅伝5区の名物山登りで圧倒的な強さを誇った、順天堂大今井選手、東洋大柏原選手、青山学院大神野選手が祀られている?

もちろん違います。
こちらはその箱根駅伝山の神の語源となった元祖、というか本物の山の神で、馬頭観音と地蔵が安置されていました。
箱根駅伝第5区を走るランナーのみなさんは、ぜひともお参りを。

ということで、あらためて順路では先ほどの交差点からだと右に鈍角に曲がり、写真正面の方向に進みます。

そして道は右に曲がっているのですが、旧東海道はそのまま直進。

すると右側に次の目的地が見えてきました。
芦川の石仏群

こちらは芦川の石仏群と呼ばれる場所で、多くの石仏、石塔があります。
この庚申塔は箱根でもっとも古いもので、建立は万治元年(1658年)とのことで、当時造立にかかわった地元の人々の名前が彫られているそうです。
江戸の時代から京を目指す旅人をずっと見守っていると思うと、なんだか感慨深く思いました。
向坂・赤石坂・釜石坂・風越坂の石畳

芦川の石仏群を過ぎると、本日最初の石畳になります。
周囲は自然のままの杉並木で、石畳は江戸時代に敷かれたものがそのまま使われているのか、少し荒れていました。
この辺りは箱根外輪山の箱根峠へと続く、向坂と呼ばれる上り坂。ゴツゴツした石畳のせいで、最初からちょっと苦労して歩きます。

向坂を登った先には国道1号線があり、低い高さのガードをくぐります。
ちなみにガード下に見える二人の方は、私を追い抜いた同業者(旧東海道を歩く同志のこと)。前回は雨の中だったので、同業者は見当たりませんでしたが、今回はこの後何人もの方と遭遇します。

国道を抜けた先にもまた坂道。こちらは赤石坂という名前が付けられています。

赤石坂を登り切ると、次は右カーブの上り坂。ここは釜石坂という名称だそうです。

そしてここが挟石坂。足元が不安定なので結構厳しい坂道でしたが、それぞれの坂に名称があることで次の目標ができるので、坂を登る励みになります。

そして最後にこの階段を駆け上がると、

国道1号線に復帰。今回も旅の序盤からなかなかハードです。
静岡県へ

国道1号線はちょうど分岐になっていますが、その一本を横断して向こう側の道路に移動します。ここは非常に危険なので注意が必要。出来れば歩道橋を設置してもらいたいのですが・・・。

しばらく国道1号線の細い歩道を歩き、箱根くらかけゴルフ場の看板があるY字路を左に行きます。

坂を登ると分岐があるので、ここを右に曲がります。

この場所が本日の道中の頂点で、ここから三島宿までは下りになります。
出発時は雲が多かったのですが、次第に雲が減り、青空が多くなってきて、富士山が顔を出しました。静岡県民にとっても富士山を見ながら歩けるのは嬉しい限りです。

そして坂を下ると、国道1号線の最高標高として有名な箱根峠の交差点が見えてきました。

長かった神奈川県でしたが、この交差点から静岡県になります。
「静岡に帰って来たどー!」
いやいや、今日の朝、静岡の自宅を出たんですけど・・・。

箱根峠の横断歩道を渡ると、

歩道は石畳の装飾が施されるようになり、三島市内ではこの装飾が旧東海道の目印になります。

すぐに石畳風の歩道に沿って右に曲がり、冠木門をくぐると、

新箱根八里記念碑という説明板があるのですが・・・。

あっ!このボウボウのススキの中にあるこれか・・・。
橋田壽賀子さんや黒柳徹子さんなどの有名芸能人がデザインしたという地蔵も、こんな有様では可哀想。
管理は国交相? なんとかして欲しいです。

その後、旧東海道は本来ならば右に曲がるのですが、令和元年十月の台風による被害のため通行止めになっており、迂回路の国道1号線を進みます。
まあ、主要道ではないので復旧は後回しになるのはわかりますが、六年以上も復旧されないとは如何なものかと思います。

ということで、迂回路をしばらく歩き、

石畳風の歩道から分かる通り、ここが復帰地点になります。

そして旧東海道になった国道1号線を少し歩き、ここを右に曲がり土の道に入ります。
接待茶屋の一里塚

土道の入り口にあるのが接待茶屋の一里塚(別名 山中新田の一里塚)で、ご覧の通り、南塚が現存しています。
江戸日本橋から二十六里目(約104km)。
尚、一里は4kmとして計算するのが一般的ですが、厳密には3.92727kmなので、二十六里は102.1kmということになり、ここ接待茶屋の一里塚は江戸日本橋から100kmを超えた初めての一里塚ということになります。
ちなみに、前回紹介した箱根宿手前の葭原久保の一里塚が二十四里目で、こちら接待茶屋の一里塚が二十六里目ですが、二十五里目の一里塚は?
もしかして、先ほど迂回をしたから、元来の旧東海道にあるのかもしれない、と思いインターネットで調べてみたがそこにもないらしい。
そういえば、葭原久保の一里塚からここまで、二里(約8km)あるはずなのに、やけに短かったような・・・。Googleマップで調べてみると、二里あるはずが一里とちょっと(1.184里=4.65km)しかない。
うーん、二十五里は元々無かったのか。それとも東海道に一里塚を設置した後、この区間が新道に付け替えられて短くなったのか。謎が深まります。
ご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひコメントで御教授ください。
徳川有徳公遺蹟碑

接待茶屋の一里塚のとなりには、徳川有徳公遺蹟碑がありました。
徳川有徳とは、暴れん坊将軍で有名な徳川八代将軍吉宗のこと。吉宗はここにあった茶屋で休憩をして、代金を永楽銭で支払ったそうで、その茶屋は永楽屋と呼ばれました。
ちなみに永楽銭とは室町時代に大量に輸入された中国の通貨で、江戸時代初頭まで標準貨幣として使われた外貨です。
かぶと石

徳川有徳公遺蹟碑の向かいにはかぶと石があります。

となりには説明板があり、それによると、この石は兜を伏せたような形をしていることから、かぶと石と言われたそう。
また、豊臣秀吉が小田原征伐の際に休憩し、兜をこの石の上に置いたことからかぶと石と呼ばれるようになったとも言われているそうです。
実はこの石は昭和の初めまで兜石坂(先ほど迂回したため今回は歩けなかった場所)にありましたが、国道1号線の拡幅工事の際にここに移設されたようです。

かぶと石の先がY字路になっていますが、旧東海道は看板に書かれている三島宿の方向、左側を進みます。

旧東海道はご覧の通り樹木が鬱蒼と茂る森の中。12月末の今でもこのような状態なので、夏場はさらに葉が茂り歩くのに苦労しそうです。

そしてこの左側に次の目的地があります。
明治天皇御小休趾碑

ここが明治天皇御小休趾碑。
ここはかつて茶屋があり、そこで明治天皇が休憩をされたそうです。
このような藪の中なので、現在茶屋はありませんが、足元をよく見ると茶屋の土台が残っていました。
その茶屋からは遥かに駿河湾が望めたそうですが、現在は藪に囲まれて空しか見えませんでした。

明治天皇御小休趾碑を過ぎると、またも石畳になります。

無骨なここの石畳は往時のものでしょうか。
この辺りまで来ると、正直歩きにくい石畳はもう勘弁してほしいと思うのですが、この後も石畳は延々と続くのでした・・・。
念仏石

明治天皇御小休趾碑を出て石原坂を登ると、右手にある突き出た石が念仏石。

この石の前には石碑があり、そこには『南無阿弥陀仏・宗閑寺』と書かれています。
説明板によると、旅の行き倒れを宗閑寺で供養して、碑を建てたとのことです。

念仏石を過ぎて石畳をしばらく歩くと、やがて車の走行音が聞こえ、

やがて明るい場所に出て来ました。

実は先ほど別れた国道1号線がとなりを通っていて、この分岐を左に曲がると国道に復帰できますが、旧東海道は道なり。この後道中は道の駅やコンビニがないため、ここでトイレ借りて先に進みます。

すぐにY字路があり、ここを左に行きます。

出発時は雲が多かったのですが、昼には太陽の光が燦々と降り注ぎ、杉並木の影がクッキリと石畳に写し出されています。

杉並木が終わって左手が開けてくると、ここの石畳とももうすぐお別れ。

民家の傍を歩き、

この私有地のようなところを左に折れ、

この丁字路を右に曲がると、久しぶりに国道1号線に復帰しました。
ここはその後に備えて、先に見える横断歩道を渡ります。

そして国道を下ると歩道は強制的に左に曲げられ、

階段を下ると、

おーい、またも石畳かよ・・・。
ただ、小枯木坂と呼ばれるこの石畳はほぼ真っ直ぐな線形で、杉並木の間を歩くのが結構気持ちがよく、散歩をする何人かの地元の方とすれ違いました。

最後にS字になり、左からアスファルトの道が合流。出来ればそこを歩きたいのですが、旧東海道は右の石畳を歩かなければなりません。
雲助徳利の墓

その先にあるのが、勇者に何度もしばかれて亡くなったスライムの墓・・・ではありません。
墓に描かれているのはスライムではなく徳利(とっくり)。

この墓はむかしから、雲助の墓と言われています。
墓石には久四郎という名前が刻まれています。
松谷久四郎と名乗った彼は、西国大名の剣道指南役でしたが、大酒飲みのため事件を起こして国外追放になり、箱根で雲助(江戸時代に籠をかついだ住所不定の人足)の仲間になったそうです。
そして、雲助をいじめる武士をこらしめたり、雲助たちの代わりに読み書きをしたり、相談に乗ったりするうちに、雲助仲間から親分以上に慕われるようになりました。
しかし、普段は酒を飲んでいたので早死してしまいました。
そこで雲助仲間が金を出し合いこの立派なお墓を建て、墓に酒と盃、徳利を刻み供養しました。
尚、このお墓は当初接待茶屋の一里塚付近にあったのですが、酒飲みの墓なのでふらふらここに移って来たようです。

雲助徳利の墓の前で石畳は終了し、

緩い坂を登ると国道1号線とまたも合流です。
ちなみにこの後600mほどこの道路を歩くのですが、日本を代表する幹線の国道1号線なのに、車がほぼ通らず驚きました。

尚、この合流地点には史跡箱根旧街道碑の書かれた石碑がありました。
駒形諏訪神社

その合流地点の向かいには、山中城の守護神だった駒形諏訪神社があります。
境内には樹齢六百年とも言われている大きなカシの木があるそうですが、石段がキツそうなので、ここで手を合わせて先を急ぎます。
宗閑寺

駒形諏訪神社のすぐ先にあるのが宗閑寺です。

境内には山中城攻防で戦死した両軍武将の墓があるのですが、ご覧の通りかなり古く文字が見えずわかりませんでした。
そういえば、先ほどの念仏石の前の石碑にも、宗閑寺の名前が刻まれていましたね。

宗閑寺近くのこのY字路を右方向、石畳の装飾が施された道に行きます。
芝切地蔵

坂道を下っていくと右側にあるのが、山中新田の守護地蔵の芝切地蔵です。

境内には多くのお地蔵様が祀られていましたが、芝切地蔵はどのお方?

愛嬌のあるお姿のこのお方? いやお地蔵さんじゃないか。
ここ芝切地蔵はかつて、縁日の小麦まんじゅうが評判だったそうだったで、このお方はそのまんじゅうを頬張り、美味しい!と言っているようですね!?

そして旧東海道は国道1号線の横断歩道を渡ります。
山中城址

横断歩道を渡り振り返ると山中城址の入り口があります。
山中城は後北条氏の山城で、障子堀と言われるワッフルのような形状をした防御施設が特徴で、日本百名城にも選ばれています。
静岡に住む身としては、一度は訪れておきたいと思っていましたが、今回この旅で立ち寄るには時間がなく、泣く泣く通過。
今度時間がある時にじっくりと見させていただきます。

そして旧東海道はまたまた杉並木の石畳に。

ただ、先ほどよりも歩きやすい石畳になっているような感じです。

説明板によると、この辺りは復元・整備された区間のようで、それで歩きやすくなってい他のですね。
整備前の写真を見ると石が歯抜けになり、しかも丸く立体的になっています。四百年という長い月日の末に石の角が落ちて丸くなったのかな。
箱根八里碑と馬頭観音

こちらは箱根八里碑。作家の司馬遼太郎さんが、箱根旧街道を歩く人々の旅のひとときの憩いになれば、と思いメッセージを埋め込んだ石碑だそうです。
また、となりには馬頭観音がありました。
馬頭観音とは頭の上に馬の頭を載せた忿怒の姿をとる観音菩薩。馬の守護仏として、牛馬の無病息災や旅の安全、交通祈願、そして亡くなった馬の供養として信仰されているそうです。
江戸から箱根までは道路端に道祖神が多く祀られていましたが、静岡県に入ると道祖神に代わり、馬頭観音や地蔵尊が多く祀られるようになります。

ここの石畳は約350mで終了し、国道1号線に合流。

合流地点の右手にはドラゴンキャッスルなる巨大アスレチックタワーがあり、本日は年末年始の長期連休ということもあり、子供たちのはしゃぐ声が響いていました。

そして山中城口の交差点を渡り、旧東海道は直進し、

ここを下りると、

完全に飽きてしまった石畳。ここは330mほどあるようです。
空中東海道

石畳をしばらく歩くと、両側にフェンスがある見覚えある景色。

そう、箱根路の登りでもあった、箱根名物空中東海道です。

眼下に行き交う車とのミスマッチ感がたまらない。

ただ、前回の県道とは違い、この下は交通の要所国道1号線ということで、石畳は固められて、その両端の盛り土やフェンスも高く、石などの落下を防いでいました。

国道を渡ると道路に出るのでここを慎重に横断します。
ちなみに、この手前には『横断歩道を渡りましょう』という看板がありますが、Googleマップで探しても向こう側に行ける横断歩道や歩道橋が無い。
ガイドブックにも『横断する』と書いてあるので仕方がありません。
そして写真のガードレースの隙間から歩道に入り、

すぐ右の階段を降ります。

下った先はこんな感じで、最初は石畳の上に落ち葉が積もり歩きやすいのですが、

次第に石畳が顕になります。

そして、場所によっては石畳をコンクリートで固めてありました。

石畳は340mほどで一旦終了し、国道1号線と合流します。

右手には静岡では有名な三島スカイウォークがあり、その先には富士山が見えます。

舗装路は一瞬で終わり、ここで左に入り土道へ行き、

すぐに石畳になると、

次の目的地がありました。
馬頭観音

本日二体目、そして江戸日本橋から数えても二体目の馬頭観音です。
こちらは嗣中で安置されていて、綺麗なお身体をしておられました。

途中、三島市街(?)や、箱根連山を望めたり、

冬でも青々とした野菜畑があったりと、この石畳は景色を楽しむことができました。
笹原の一里塚

そんな石畳も終わりに近づくと、左側に笹原の一里塚がありました。
こちらの一里塚はご覧の通り南塚が当時の姿を残しています。
せっかく天気が良くなったので、立派な一里塚を順光で、

どうです?素晴らしい保存状態でしょ??
江戸日本橋から二十七里目(約108km)。我ながら凄い距離を歩いて来たなあと思います。

笹原の一里塚の先で石畳は終わりになります。

そしてすぐに国道1号線を右の横断歩道を使って横断します。
こわめし坂

国道を渡ると、道はダラダラ下るのですが、

ここで一気に奈落の底へ。写真ではわかりにくいでしょうか。

住宅の土台部分の角度を見れば伝わりますでしょうか。
こわめし坂は箱根西坂最大の難所として、古くから旅人に恐れられていました。
あまりの急坂で、背負っていた米が汗と熱気で蒸されて強飯(こわめし=おこわ)になったことが名前の由来だそう。

その後も急な下り坂は長く続き、登りじゃなくて良かった、と強く思いました。

長かったこわめし坂はここでやっと終わり、国道1号線に合流です。

道中はこんな感じ。平坦な道は良い、そしてアスファルトの道は良いなあ、と思いながら足を進めます。

そして次の目的地に到着です。
松雲寺

ここ松雲寺は江戸時代、寺本陣だったらしく、生麦事件を起こした島津久光や、徳川十五代将軍慶喜も休息したそうです。
また、入り口の石碑からもわかる通り、明治天皇が休息をして、ここで富士山を眺めたそうです。

その後はしばらく国道1号線を歩き、このS字区間で右手を見ると、

富士山を見ることが出来ました。
朝からなかなか雲に隠れて、その雄大な姿を見せてはくれませんでしたが、本日の旅も後半になり、やっとご褒美をくれました。

旧東海道はこのパイプフェンスの切れ間から右に入って坂を下り、

このY字路を右に進みます。

そして右に見える石碑が次の目的地。
史跡法善寺旧址碑

ここはかつて法善寺という、元禄十七年(1704年)建立のお寺があった場所です。

法善寺碑を過ぎたらここを右折し、

細い道を下ります。
ちなみに、左にあるこの石碑は、足利尊氏が創建した七面堂址碑です。

坂を下り切ったら、そのまま下道に合流し、

その先の子供の森公園入口交差点を右に渡ると、次の目的地が見えました。
出兵馬記念碑

こちら、正月に向けてきれいなしめ縄が付けられているのは、出兵馬記念碑。戦時中に徴兵され、外地に出兵した軍馬の供養塔です。
それにしても三島市は、この出兵馬記念碑や馬頭観音など、馬が多く祀られていますが、馬とどのような関わりがあるのでしょうか。

出兵馬記念碑のすぐ先のこの旧な階段を上がると次の目的地。すでにかなり歩いてきた私にとってこの坂は厳しいが、行っています。
山神社

こちら山神社は、山を納め司る神と仰がれ、山林、農耕、殖産の徳を持つ五穀豊穣の守護神です。
説明板によると、本殿は精巧で彫刻に彩色も施されていると書かれているので、写真は本殿ではないか、もしくは正面でない可能性があります。
六地蔵

山神社の先には六地蔵。
もちろん地蔵さまが六体・・・いや、その倍以上はいらっしゃるぞ!?
みなさん花が手向けられ、赤い頭巾と涎掛けでオシャレして、とっても可愛らしかったです。
臼転坂

六地蔵の先のここを右に上がり、旧東海道は土道に入ります。

土道は石畳に変わり、臼転坂と呼ばれる坂を下ります。
臼が転がるほどの急坂だったそうですが、こわめし坂を下ってきた私には、そこまで厳しい坂に感じませんでした。

石畳はここで終わり、そのままその先に見える舗装路に合流します。

時刻は15時。今日もペースは遅いのですが、なんとか日が暮れる前に三島宿に辿り着けそうです。
普門庵

舗装路に入ると、左にあるのが普門庵。
元禄十四年(1701年)、鉄牛という僧侶が聖観音菩薩像を背負って来ましたが、この場所で突然重くなり動けなくなったため、やむを得なくここに安置して本尊としたそうです。
そんな聖観音菩薩像は、写真のガラス戸越し安置されているのですが、その表情が非常にリアルで驚きました。

敷地は狭いながらも、境内には多数の石仏石塔がありました。
宗福寺

普門庵の先には、山中城の戦いで戦死した秀吉軍将兵の供養時の宗福寺があります。

山門右手には享保九年(1724年)建立の萬霊塔があります。

宗福寺の300mほど先で道は左に曲がるのですが、旧東海道はここを右に外れて細い道へ。

そしてすぐ先の点線の白線の場所を左折し、

その先の立派な箱根路碑がある場所で国道1号線と合流します。

ここが箱根路の入り口ということで、長かった下り坂もここで終了し、三島宿までの残りは平坦な道が続きます。
初音ケ原松並木

国道1号線沿いを少し歩くと、ここから松並木に。ここは初音ケ原松並木と呼ばれているそうです。

足元は石畳の雰囲気を施したもので、上面が平になっていて歩きやすいです。
錦田の一里塚

松並木の中に榎が一本あり、根本に土が盛られています。
そう、ここが錦田の一里塚です。

さらに驚いたことに道路を挟んで向こう側にも榎の木。

なんとここ、錦田の一里塚は、国道1号線沿線の三島市街地に近い場所にも関わらず、両塚が残されていました。

塚にしっかりと根を張る姿に、四百年という歳月を感じます。
江戸日本橋から二十八里(約112km)。

初音ケ原松並木はここで終了。

五本松交差点を渡り、右に行き、すぐに左へ進みます。

歩道は、先ほどの初音ケ原松並木とは違う雰囲気の石畳風になっていました。

右手の開けた場所から富士山が見えました。
我が静岡市からは右肩に見える宝永火山の噴火口ですが、三島市からだと宝永火山が正面になり、両肩がスラリとなってこれはこれで良い感じです。
愛宕坂

その先の下り坂が愛宕坂と呼ばれていた場所。
ここは江戸時代の初期に人も馬も滑ってしまう大変なところでした。
そこで幕府は延宝八年(1680年)に、それまで竹を敷いたものから石畳に改修。当時の愛宕坂は、長さ140m、幅3.6mだったそうです。
現在石畳風に整備された道路の下には、往時の石畳が埋まっている箇所もあるそうです。

愛宕坂はこのY字路を左側に行き、

さらに下り、

東海道本線を渡り、

また下り、愛宕橋まで長く続きました。
いやー、登りじゃなくてよかった!
庚申堂

愛宕橋の先の左手には、嗣中で安置される庚申堂があります。
ここは林光寺の旧跡だそうです。

太陽の位置はだいぶ低くなりましたが、目的の三島宿中心地まではあとわずか。なんとか日暮前には到着しそうです。

新町橋を渡ると、その先が東見附(江戸見附)があった場所。
現在痕跡や石碑などは残っていませんでしたが、ここからいよいよ三島宿です。

そして、江戸時代の三島宿最大の観光地が見えて来ました。
三嶋大社

こちらが伊豆國一宮の三嶋大社です。
では、総門で一礼をして拝観させていただきます。

こちらは慶応三年(1867年)竣功の神門。そして門の奥に見えるのは同じく慶応三年(1867年)竣功の舞殿です。

そして、一番奥には慶応二年(1866年)竣功の国指定重要文化財、三嶋大社御本殿になります。
源頼朝が再興を祈願した歴史ある本殿は総けやき造りで、精細な彫刻が印象的。商売繁盛、厄除けなどのご利益があるそうです。
本日は暮れも迫る12月29日ということで、すでに初詣の装飾が施されていました。


境内にも出店が用意されており、この記事は2026年1月2日に書いていますが、今年の正月も多くの初詣の方で盛り上がっていることでしょう。
問屋場跡

本日最後の目的地はここ、三島中央町郵便局。ここは江戸時代、問屋場がありました。
問屋場は江戸時代、武士や公家などの公用の旅人と荷物を次の宿場に送るために、馬や人足、駕籠を担ぐ駕籠舁きの確保をしていました。
三島宿は難所の箱根八里の輸送を担当していたため、業務は膨大で、馬と人足は常に不足し、問屋場は多忙を極めていたそうです。
歩みの記録

そして、三島宿の中心地だった本町交差点に到着。東海道一の難所と言われた箱根八里を、無事踏破しました!
では、いつものようにiPhoneのフィットネスアプリで、本日の行程の記録を見てみましょう。

まずは地図から。芦ノ湖を出発して三島市の中心街まで、今回は南西方向に進みました。
途中、軌跡が赤色で表示されている部分は速度が遅かった区間。名所で立ち寄り観光をした場所もありますが、石畳の箇所で特に速度が遅くなっているのがわかります。

続いては旅の詳細です。
本日は10時16分と遅い出発で、三島宿に着いたのが日没の時間と同じ16時48分。今回はかなりペースが遅かったのですが、なんとか日が暮れる前に到着できました。
箱根宿と三島宿は三里二十八町で、現在の道の実測は14.9kmですが、途中迂回路があったり名所を観光したりした結果、18kmほど歩きました。
そして上昇した高度はちょうど300m。道中はほとんどが下り区間でしたが、出発地点の箱根関所から箱根峠までの道中がかなり厳しい坂道だったので、そこで稼いだのだと思います。
ということで、二日をかけて箱根八里を制覇し、次回は沼津宿を目指します。
やっと平坦な道になりますが、みなさんに楽しんでもらえるよう、多くの名所旧跡を紹介しながら歩くので、良かったら下のバナーから続きをご覧ください。











箱根超え、お疲れさまでした。箱根の関所、時代劇で見ていたものより立派なように思いました。峠を超えて眺める秀麗な富士山、いいですね。やはり日本を代表する山であることを実感します。それと印象的だったのが、行き倒れた人を供養したところがあったことです。昔の旅の厳しさが偲ばれます。四国88所巡礼の時も見ましたし、高野街道、西国33所巡礼の道近くに住んでいるので、そういった方をお祀りしたと伝えられているところも知っています。
今回もいろいろな感動を居ながらにして味わえたことに感謝です。ありがとうございました。
これからも気をつけて東海道を踏破されますように。
次回も楽しみにしております。☺️
asamoyosiさん、いつもありがとうございます。
東海道を歩いてみると、むかしの旅の厳しさが少しずつわかり始めました。
まずは京都三条大橋まで歩き貫き、その後は様々な街道を歩きながら、日本をもっと知りたいと思いました。いずれはasamoyosiさんの地元も・・・。
旅の見どころや新たな目標を授けていただき、ありがとうございました。
コメントいつも楽しみにしています