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F1日本開催での決勝入場者数推移(日本GP・パシフィックGP)

日本でのF1開催は1976年にはじめて開催され、その後中断もありながら時には1年に2回も開催され、これまでに37回が行われている。

さて、その入場者数はどうなのか?

入場者数が一番多かったのはセナプロや中嶋悟が活躍したF1ブームの1990年前後なのか?

それとも佐藤琢磨が躍進し、ホンダやトヨタ、ブリヂストンが参戦した2000年代か?

そして低迷が叫ばれる近年の入場者数はどうなのか?

そこで今回は、富士スピードウェイで開催された1976年から現在までのF1日本開催の決勝入場者数を調べてみた。

1976年F1世界選手権インジャパン(富士スピードウェイ)

決勝入場者数・・・72,000人

DATA
  • 決勝開催日・・・1976年10月24日
  • 開催地・・・富士スピードウェイ
  • 決勝日天気・・・雨のち晴れ(ウエットのちドライ)
  • 優勝ドライバー・・・マリオ・アンドレッティ(ロータス)
  • 日本人ドライバー・・・長谷見昌弘、星野一義、高原敬武、桑島正美

日本初のF1開催は富士スピードウェイで行われた1976年。

そのレースの観客動員数は72,000人・・・へっ?意外に少ない!?

モータリゼーション真っ只中の時代で、モータースポーツ熱も今とは比べものにならないくらいの盛り上がりだったはず。

また、登場F1マシンで唯一6輪車で参戦したティレル(当時はタイレル)P34が日本で人気になり、半ば社会現象にもなった。

なのにこの入場者数の少なさは、なぜ?

おそらく当時の富士スピードウェイは開業から10年足らずだが今ほど整備されておらず、仮設スタンドも多くなかったため、これでも満員だったのかもしれない。

それと、数字に表れていない観客も居そうだ。

そう当時は人を騙してナンボって時代。

元F1メカニックで現在はモータースポーツジャーナリストの津川哲夫さんも、ニッパーで金網を切って侵入してF1を観た、なんてことをテレビで言っていたし、トランクに隠れて侵入したなんてエピソードも聞く。

まあまあ、日本初のF1開催の観客動員数は72,000人ということで・・・。

1977年日本GP(富士スピードウェイ)

6輪タイレル(ティレル)が活躍した時代
2019年鈴鹿サウンドオブエンジンにて

決勝入場者数・・・74,000人

DATA
  • 決勝開催日・・・1977年10月23日
  • 開催地・・・富士スピードウェイ
  • 決勝日天気・・・晴れ(ドライ)
  • 優勝ドライバー・・・ジェームス・ハント(マクラーレン)
  • 日本人ドライバー・・・星野一義、高原敬武、高橋国光

日本で2回目のF1開催は74,000人と、前年から2,000人ほど観客がアップしている。

この年は6周目にジル・ヴィルヌーヴのフェラーリとロニー・ピーターソンのティレルが1コーナーで絡み、その反動でヴィルヌーヴのフェラーリがエスケープゾーンの奥に突っ込んだ。

そして立ち入り禁止ゾーンにいた観客1人と警備員1人の合計2人が死亡し、7人が重軽傷を負う大惨事となり、これもきっかけとなりこの後日本でのF1開催は中止されることとなった。

1987年日本GP(鈴鹿サーキット)

決勝入場者数・・・112,000人

DATA
  • 決勝開催日・・・1987年11月1日
  • 開催地・・・鈴鹿サーキット
  • 決勝日天気・・・曇り(ドライ)
  • 優勝ドライバー・・・ゲルハルト・ベルガー(フェラーリ)
  • 日本人ドライバー・・・中嶋悟

この年は10年ぶりに日本グランプリが復活した年。

開催場所は鈴鹿サーキットになり、鈴鹿初のF1開催では112,000人の観客を動員した。

日本人初のF1フルタイムドライバーとなった中嶋悟の凱旋と、快進撃を続ける第2期ホンダエンジンの活躍、そしてこの年からフジテレビが全戦に渡り中継を開始し日本でのF1人気が加速したため、富士スピードウェイでの開催から観客数が大きく増えたものと推測する。

1988年日本GP(鈴鹿サーキット)

決勝入場者数・・・121,000人

DATA
  • 決勝開催日・・・1988年10月30日
  • 開催地・・・鈴鹿サーキット
  • 決勝日天気・・・曇りのち雨(ドライ、ウエット)
  • 優勝ドライバー・・・アイルトン・セナ(マクラーレン)
  • 日本人ドライバー・・・中嶋悟、鈴木亜久里

鈴鹿サーキット2度目の開催となった1988年の日本グランプリは、前年の112,000人から9,000人増えて121,000人の観客を動員した。

ホンダエンジンを搭載するアイルトン・セナとアラン・プロストの快進撃(ここまで14戦13勝、ポールポジション13回)とセナプロ決戦で、多くのF1ファンが注目をした結果だ。

そしてこの年は中嶋悟に加えて全日本F3000チャンピオンの鈴木亜久里がスポット参戦している。

1989年日本GP(鈴鹿サーキット)

決勝入場者数・・・132,000人

DATA
  • 決勝開催日・・・1989年10月22日
  • 開催地・・・鈴鹿サーキット
  • 決勝日天気・・・曇り(ドライ)
  • 優勝ドライバー・・・アレッサンドロ・ナニーニ(ベネトン)
  • 日本人ドライバー・・・中嶋悟

鈴鹿サーキット3回目のF1開催となる1989年は前年から11,000人増え、132,000人の観客が決勝日に入場している。

この年から古舘伊知郎がF1実況に加わり、それもありにわかF1ファンが増殖して日本でのF1ブームが到来する。

このレースは今でも語り草となっているシケインでのセナプロの接触事故が起きた年。

47周目のシケインでアイルトン・セナがアラン・プロストのインに侵入し両者が接触。

プロストはその場でマシンを降り、セナは再スタートをするがチェッカー後に失格処分を受け、チャンピオンはプロストの手に転がり込んだ。

1990年日本GP(鈴鹿サーキット)

決勝入場者数・・・141,000人

DATA
  • 決勝開催日・・・1990年10月21日
  • 開催地・・・鈴鹿サーキット
  • 決勝日天気・・・晴れ(ドライ)
  • 優勝ドライバー・・・ネルソン・ピケ(ベネトン)
  • 日本人ドライバー・・・中嶋悟、鈴木亜久里

1990年の日本グランプリは前年からさらに9,000人増え、141,000人(決勝)が入場した。

バブル絶頂期とF1ブームが重なりF1日本グランプリのチケット購入は困難を極めた結果、40数倍のプラチナチケットとも言われた。

ファンの注目はセナプロ決戦。

3年連続のチャンピオン決定戦の舞台となり、ファンはその動向に注目したがスタート直後の1コーナーで両者リタイヤ。

そして2周目にはゲルハルト・ベルガーのマクラーレンも同じ1コーナーでコースアウトし、ホンダ勢は全滅しファンは落胆した。

しかしその後、鈴木亜久里が着実にポジションを上げ終盤には3位をキープ。

迫るウィリアムズのパトレーゼを振り切り、日本人初の3位表彰台を獲得し、最終的に日本人ファンにとっては大満足のレースとなった。

1991年日本GP(鈴鹿サーキット)

決勝入場者数・・・148,000人

DATA
  • 決勝開催日・・・1991年10月20日
  • 開催地・・・鈴鹿サーキット
  • 決勝日天気・・・晴れ(ドライ)
  • 優勝ドライバー・・・ゲルハルト・ベルガー(マクラーレン)
  • 日本人ドライバー・・・中嶋悟、鈴木亜久里(、服部尚貴)

1991年の日本グランプリは決勝入場者数が前年からさらに7,000人アップし、148,000人を動員した。

たしかこの年を前に2コーナー外側のスタンドが完成し、サーキットの入場キャパシティーが増えたものと記憶している。

F1ブームを牽引したひとりである中嶋悟が引退を発表し、この日本グランプリが最後の凱旋レースということで多くの観客が中嶋を応援しにサーキットに詰めかけ、鈴鹿の至る場所に『ありがとう中嶋』という横断幕が掲げられた。

1992年日本GP(鈴鹿サーキット)

決勝入場者数・・・150,000人

DATA
  • 決勝開催日・・・1992年10月25日
  • 開催地・・・鈴鹿サーキット
  • 決勝日天気・・・晴れ(ドライ)
  • 優勝ドライバー・・・リカルド・パトレーゼ(ウィリアムズ)
  • 日本人ドライバー・・・鈴木亜久里、片山右京

決勝での入場者数は前年の148,000人から2,000人増え、15,000人の大台に到達したのが1992年。

1987年の鈴鹿サーキット初開催以来チャンピオン決定の舞台となってきたが、この年はすでに決定していたが、ホンダ第2期F1活動最後の凱旋レースということで、ホンダを応援するファンが多くサーキットに詰めかけている。

セナがヘルメットに日の丸のステッカーを貼って、ホンダへの感謝を表したのが印象的だった。

また前年の全日本F3000チャンピオンである片山右京がこの年よりF1に参戦しており、彼の凱旋レースということで、片山ファンも多くいたと思われる。

1993年日本GP(鈴鹿サーキット)

決勝入場者数・・・151,000人

DATA
  • 決勝開催日・・・1993年10月24日
  • 開催地・・・鈴鹿サーキット
  • 決勝日天気・・・晴れ時々曇り一時雨(ドライ、ウエット、ドライ)
  • 優勝ドライバー・・・アイルトン・セナ(マクラーレン)
  • 日本人ドライバー・・・鈴木亜久里、片山右京、鈴木利男

1993年の日本グランプリは決勝入場者数が前年から1,000人増え、151,000人だった。

この年は日本で愛されたアイルトン・セナの最後の優勝レース。

そして鈴木亜久里、片山右京に加え、日本人第3の男として鈴木利男がスポット参戦している。

次のページではF1ブーム終焉後の入場者数の推移を見ていきます。
そしてTIサーキット英田(現:岡山国際サーキット)で行われたパシフィックグランプリも登場!

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大福
モータースポーツをこよなく愛す、セナプロ世代の四十代。 サーキット観戦デビューは、1996年フォーミュラニッポン第7戦の富士スピードウェイ。ど迫力のエキゾーストノートとタイヤの焼ける匂いを実感し、それまでテレビでしか観戦してこなかった事を悔やむ。以降、F1・WEC・スーパーGT・スーパーフォーミュラなどを富士スピードウェイ・鈴鹿サーキットを中心に多数観戦する。