今回は旧東海道踏破の旅、前半のメインイパート箱根越えです。
ここのところ週末のたびに天気が悪かったり仕事が入ったりして、一ヶ月近く旧東海道を歩いていなく、歩きたくて仕方がない。
本日12月21日も雨予報ですが、そんな訳で強行。

小田原駅に到着すると雨は上がっていて、なんと太陽が顔を出しています。
高校時代は野球部の練習が嫌で雨乞いをするも降らず、持って生まれた晴れ男を恨みました。けど今日はその能力に感謝、と思っていましたが・・・数時間後に大変な修行が訪れることに。

それでは前回の到達点である小田原宿の中心、本町交差点から出発です。
ザックリ見出し
- 1 片岡永左ヱ門本陣跡
- 2 小西薬房
- 3 外郎
- 4 山角天神社
- 5 小田原駅跡標石
- 6 板橋口跡(上方口跡)
- 7 宗福院地蔵堂
- 8 小田原用水取入口
- 9 八幡神社
- 10 石祠道祖神
- 11 風祭の一里塚跡
- 12 宝泉寺
- 13 石祠道祖神
- 14 駒ノ爪橋跡
- 15 日本初の有料道路
- 16 山崎の古戦場碑
- 17 道祖神
- 18 白山神社
- 19 石祠道祖神
- 20 正眼寺
- 21 石祠道祖神
- 22 湯本茶屋の一里塚
- 23 箱根旧街道入口
- 24 馬の飲み水桶
- 25 観音坂碑
- 26 葛原坂
- 27 初花ノ瀑碑
- 28 鎖雲寺
- 29 女転し坂
- 30 割石坂碑
- 31 江戸時代の石畳
- 32 接待茶屋
- 33 道祖神
- 34 畑宿本陣跡
- 35 庚申塔
- 36 畑宿の一里塚
- 37 空中東海道
- 38 橿木坂碑
- 39 猿滑坂碑
- 40 追込坂碑
- 41 甘酒茶屋
- 42 白水坂碑
- 43 天ケ石碑
- 44 箱根馬子唄碑
- 45 ケンペル・バーニー碑
- 46 賽の河原
- 47 葭原久保の一里塚跡
- 48 旧東海道箱根杉並木碑
- 49 箱根関所
- 50 歩みの記録
片岡永左ヱ門本陣跡

歩き出すとすぐにあったのがこちらの説明書き。
ここは四軒あった小田原宿本陣の一つ、片岡永左ヱ門本陣の跡地です。

説明板の向かいのこの高級マンションの辺りにあったのでしょう。
伊予(愛媛県)松山の松平家などの大名が定宿としていた、この本陣の幕末の当主片岡永左ヱ門は、明治時代には小田原町の要職を歴任したそうです。

右から読む『店轉自戸瀬』の看板。転の旧字体が轉とは知りませんでした。
江戸時代に京を目指す旅人は、ここ小田原宿で二日目の宿としたらしく大いに栄えたそうで、こんな歴史ある建物が居並ぶ様は見応えがありました。
ところで私はというと、一日目が品川宿までで二日目が神奈川宿、三日目が戸塚宿で四日目が平塚宿。そしてここ小田原宿は五日目・・・。二日で小田原宿に到達した、江戸時代の人々の剛健ぶりに驚かされます。
小西薬房

片岡永左ヱ門本陣の先にある、見るからに歴史がありそうなこちらは、寛永十年(1633年)創業の老舗薬屋、小西薬房。小田原藩の御用商人を務めたそうです。

まだ八時すぎなので開店前でしたが、今も現役です。

いやはや、歴史が詰まった風情のある建造物でした。
外郎

小西薬房の筋向かいに小田原城があります・・・ではなく、八ツ棟造りが印象的なこちらのお店の名は外郎。その名の通り『外郎(ういろう)』発祥の老舗です。
銘菓外郎の他には薬種『透頂香』が有名だそうですが、こちらもまだ営業時間前。本物の外郎を買ってみたかった。

うーん、やっぱりお城にしか見えませんね。

外郎を過ぎると電車・・・駅??

退役した電車があるこちらは、箱根口ガレージ報徳広場。報徳社といえば、ながらスマホの元祖二宮尊徳(金次郎)ですが、その名の通り、きんじろうカフェなるおしゃれなカフェでした。

寄りたいところですが、私は本日あの山に登るという大仕事がありますので、旅の序盤から一服するわけにはいかず、この天気が続いてくれることを祈りながら先を急ぎます。
山角天神社

その先、旧東海道から少し入った場所にあるのが山角天神社。
境内には芭蕉の句碑「梅が香にのつと日の出る山路哉」があるそうですが、すみません、今日はここで手を合わせるのみです。
小田原駅跡標石

山角天神社の先に気になる標石がありました。
『交通規制 1月2日・3日 箱根駅伝のため国道1号車両通行止め』あの有名な箱根駅伝の走路なのかあ・・・ではなく、そのとなり。

この小田原駅跡標石です。
ここは小田原駅があった場所。といっても、小田原-熱海間を走っていた人車鉄道(人間が客車を押す世界的にも珍しい鉄道)の小田原駅です。
熱海までの25.6kmの距離は徒歩では約六時間かかっていましたが、人車鉄道では約四時間で走りました。速いのだか遅いのだか微妙!?

ここで旧東海道は東海道本線と箱根登山鉄道のガードをくぐります。
板橋口跡(上方口跡)

旧東海道は板橋見附交差点を右折するのですが、ここにかつてあったのが小田原宿の上方口です。

現在、面影を残すものはありませんでしたが、曲がった先に説明板が設置してあります。
説明板には、旧東海道は一度北に折れて、ふたたび西に曲がっており、その地形は旧道としてよく残されていると書かれています。

それがこの道。先ほどの交差点を曲がった後に、北へ向かい、すぐに西に向かう、重要な宿場の入り口によくある枡形の線形が残っています。

そして東海道新幹線のガードをくぐると、歩道には石畳を模した装飾が現れました。
箱根街道といえば石畳が有名で、この装飾がこの先ずっと施されていくのでした。

そんなこちらの街道には昭和の古き建物が軒を連ねます。

とうふ屋さんに、

畳屋さん。

ALWAYS三丁目の夕日の一平や淳之介が駆け出して来そう!?

中にはこんな和洋折衷のお宅も。いいですねえ。

ところで、旧東海道を歩いていると街道に選挙ポスターを多く目にします。
前回歩いた大磯では河野太郎さんがやたら多く、ここ小田原やこの先の箱根では現職の牧島かれんさんのポスターが目立ちました。
それは時に街の景観を台無しにすることもありますが、私の地元では見られない方の名前を見るのがなかなか楽しい。
もちろん、私のブログに政治的意図はまったくありません。あしからず。
宗福院地蔵堂

そんな雰囲気の良い街道にあるのが、地元から板橋のお地蔵さまと呼び親しまれている宗福院地蔵堂。
一木造りの大黒尊天や、境内に山﨑の戦いで戦死した官軍方の慰霊碑がありました。

宗福院地蔵堂の先の箱根登山鉄道の高架橋をくぐり、上板橋交差点で旧東海道はふたたび国道1号線と合流します。
小田原用水取入口

国道1号線に入るとすぐ左手にあるのが小田原用水取入口の碑。
箱根芦ノ湖を水源とする早川の水をこの地で取入れ、旧東海道に沿って小田原城下内に流した上水道で、後北条時代に造られたそうです。
反対の歩道のため、しっかり撮れませんでしたが、現在でも用水の取入口が残っているそうです。

小田原用水取入口からしばらく歩くと、右から先ほどくぐった箱根登山鉄道下りてきます。

その先にある君田島踏切を渡り、

渡った先のY字路を左に進むのが旧東海道です。

街道はご覧の通り良い雰囲気なのですが、この辺りから雨がポツリポツリの顔に当たり、路面は濡れています。
なんとかこの雨量のまま、芦ノ湖までいってもらいたいのですが・・・。
そして旧東海道は箱根登山鉄道の君田島踏切を渡り、先のY字路を左に進みます。
八幡神社

そして右手にあったのが八幡神社。創建は文永十一年(1274年)と古く、風祭村の鎮守として崇められています。
境内には天保十五年(1844年)建立の御神燈や、弘化二年(1845年)建立の狛犬があるそうですが、雨が心配なので先に進みます。
石祠道祖神

八幡神社の参道の横には石祠道祖神がありました。
旅人に癒しを与えてくれる道祖神に感謝しながら進みます。
風祭の一里塚跡

石祠道祖神から200mほど歩き、右の少し奥まった場所に風祭の一里塚跡の説明看板がありました。江戸日本橋から二十一里目(約84km)。よく歩いてきました。

跡地には赤い頭巾を被ったふっくらした地蔵尊坐像と、石祠道祖神が祀られていました。
うーん、どの角度から撮っても牧島かれんの主張が強すぎる・・・。
宝泉寺

風祭の一里塚のすぐ先にあるのが宝泉寺。
永禄元年(1558年)北条時長によって創建された宝泉寺ですが、天正八年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めで焼失してしまい、現在の御堂は安政元年(1854年)に再建されているそうです。

宝泉寺を出ると、雰囲気の良い細い道を歩きます。ふたたび太陽が顔を出しました。
暮れも押し迫る12月21日ということで、本来であればかなり寒い時期ではありますが、この日は15度前後と過ごしやすく、持ってきた薄手の羽織物も歩いていると必要がないほどでした。
石祠道祖神

そして右手にまたも石祠道祖神があります。

こちらの道祖神はアルコールが好物なのか、ビールが手向けられていました。
ところで、みなさんの地域では道祖神がありますか?
私の住むおとなりの静岡県では道祖神がほぼ無く、この旅をするまで、道祖神という言葉すらも知りませんでした。静岡では道端に地蔵が祀られていることが多く、旅の初めのころは道祖神と地蔵を混同していました。
調べてみると、道祖神は土着の『神』で、地蔵が仏教由来の『菩薩(ぼさつ)』だそうです。

そして旧東海道は箱根登山鉄道の入生田踏切を渡ります。
駒ノ爪橋跡

入生田踏切を渡ったすぐ先に説明板があります。

この場所は駒ノ爪橋跡。
解説によると、むかし源頼朝が富士の巻狩りから帰る際、この橋まで来ると馬が暴れてしまい、その際に橋の上に馬の蹄の跡が残ってしまったという逸話が残っていました。
そこで、旧東海道を歩く旅人は、頼朝の馬の頑健な脚にあやかりたいと、道中足が痛まないように祈願したそうです。
箱根越えに備えて、私の足もお願いします。
日本初の有料道路

駒ノ爪橋跡の先で国道1号線と合流するのですが、その手前にもう一つ説明板(写真右隅)がありました。

解説によると、明治八年、ここから湯本までの全長4.1kmの区間が日本初の有料道路として開通したそうです。
福沢諭吉から、「箱根山に人力車の通れる道を造れ」と提言され、江戸時代の東海道を拡げ、二箇所の急坂を人力車が通れる緩い勾配に付け替えたらしく、この辺りはその時に付け替えた道路とのこと。
なるほど、むかしから箱根街道は交通の要所だったのですね。

そして歩道はこの階段を登り、

国道を見下ろしながら箱根登山鉄道と並走し、

階段を下ったら、その先の交通安全箱根町モニュメント(白い角みたいなモニュメント)を斜め右に入ります。

しばらく国道1号線と並行する細い道を進みます。

そしてこの場所でまたも国道1号線と合流するのですが、ここが次の目的地になります。
山崎の古戦場碑

この場所にあるのが山崎の古戦場碑。合流の股の部分に碑があったので通り過ぎてしまいましたが、振り返ってその石碑を発見しました(写真左の道を手前に歩いてきた)。

江戸の名剣士、伊庭八郎率いる旧幕府軍二百七十人と新政府軍との激戦の地だったらしく、敗れた八郎は左腕を失ったそうです。
ということで、しっかりと手を合わせて次に進みます。

その後、歩道橋を渡り反対側の歩道に行くと、

大名行列の御一行様とすれ違いました。
大名行列の掛け声、「低く〜低く〜」とは言われませんでしたが、生麦事件碑で勉強してきたので、失礼無き様にやり過ごしたことは言うまでもありません。

そして、その先の三枚橋の交差点を左折して、

早川を渡ります。

ここから本格的な箱根路の始まり。では、心して挑みます。
道祖神

三枚橋の袂には道祖神。
こちらは石祀内に男女双体の道祖神が祀られていました。

写真ではわかりずらいのですが、この辺りから急坂になりました。
道は狭く歩道はほぼ無いのですが、そんな歩きづらい道に輪を掛けて、温泉地に向かうマイクロバスやクルマがなかなかの勢いで走っていて非常に怖い。
いやー、先が思いやられます。

そんな中、道中最後のコンビニで一服し、

かの有名な万病の薬(別名ポカリ)で栄養を補給して準備万端。いざ芦ノ湖へ!
白山神社

コンビニのとなりにあったのが、湯本村、湯本茶屋村の鎮守、白山神社。
江戸時代まで白山権現と呼ばれた白山神社の境内には稲荷社や水神社があり、手水舎には白山水と呼ばれる御神水が湧き出ているそうです。
ただ、本日は箱根登頂の大仕事があるため、今回はここまでにします。

箱根湯本には多くの温泉旅館(ホテル)がありましたが、白山神社のとなりにあった箱根花紋は特に立派な佇まいでした。

調べてみると三つ星ホテル。通りで立派なわけだ。
石祠道祖神


白山神社の先の右側には、二体続けて石祠道祖神がありました。
正眼寺

その石祠道祖神の先にあるのが正眼寺。
階段を登って振り返ると・・・

大きなお顔のお地蔵様にびっくり!
『曽我兄弟の仇討ち』として有名な、曽我兄弟の地蔵尊とのこと。よく見ると愛らしいお顔をしていました。
石祠道祖神


そしてまたまた二連続で道祖神が祀られています。
様々な表情で私たち旅人を和ませてくれる道祖神。こちらは男女双体の道祖神が手を繋ぎ、ラブラブな雰囲気にほっこりします。
湯本茶屋の一里塚

そんなラブラブ道祖神のすぐ先の、この辺りにあったのが湯本茶屋の一里塚。

街道脇には旧箱根街道一里塚碑がありました。
この街道は紛れもなく旧東海道ですが、ここでは箱根街道という名称の方がよく使われていたようです。
江戸日本橋を出発してから二十二里(約88km)を歩いて来ました。
箱根旧街道入口

旧東海道は湯本茶屋の一里塚の先のここを右に入ります。
箱根街道は江戸時代の石畳が多く残されていますが、ここがその一つ目の入り口です。
馬の飲み水桶

箱根旧街道の入口にあるのが民家の軒先の井戸・・・ではありません。

この辺りは江戸時代馬立場と言って馬子が一休みした場所で、この桶には山から引いた水が貯められており、馬の飲み水になっていたそうです。

さて、石畳はご覧の感じで雰囲気は最高なのですが、雨に濡れた石が滑り歩きにくい。
軽いランニングシューズを履いていたのですが、その分素材は頼りなく、滑って石の隙間に指が挟まり痛っ!となります。
こんな道を藁草履で歩いていた江戸時代の旅人の凄さを痛感しました。

そしてさるはしを渡り、

石畳を登ると、

福寿院の脇で先ほどの県道にふたたび合流します。
最初の石畳は総延長255mの短い区間で楽しめましたが、この後、幾多の苦労を味わうことになるのでした。

合流後の県道はご覧の通り急な登り下りは無いのですが、行き交う車は結構な速度を出しており、歩道がなく脇を歩く私は冷や汗もの。
観音坂碑

曲がりくねった道をしばらく歩くと、ホテル南風荘の入口付近に、『観音坂 登二町許』と刻まれた石碑がありました。
ここにはかつて観音堂があり、ここから観音坂と呼ばれる登りが二町(約200m)あります、という目印でした。
葛原坂

しばらく歩くと、カーブの外側に立て看板があります。

ここは葛原坂。
先ほどの観音坂は大した坂道ではありませんでしたが、クズの葉が生い茂る葛原坂も脚に負担をかける程ではありません。
まあ、坂の名前が付いているので江戸時代は急な坂だったのでしょうが、長い年月の末に緩やかに改良されたのでしょうね。
葛原坂を登っていると、遠くから太鼓の鼓動が聞こえてきて、次第に音が大きくなってきました。

音の主はその先にあったやすらぎ会館から。

どうやらド派手な装飾で眼を引く天聖院の施設のようでした。
そういえば、今年完走した静岡マラソンでも、随所にあった和太鼓の演奏で勇気をもらいました。日本人にとって太鼓の鼓動は元気の源です。

天聖院から少し歩くと次の目的地が見えてきました。
初花ノ瀑碑

それがこの石碑。
よく見えませんが、こちらには初花ノ瀑碑の書いてあるそうで、向かい側の山肌に滝が見えるそうですが・・・

枯渇しているのか、この日は残念ながら見ることができませんでした。

この辺りの道はさらに狭いのですが、温泉地や芦ノ湖に向かう車は多く、歩行者は車の邪魔にならぬよう退避を強いられます。
鎖雲寺

こちらは鎖雲寺の入口。
鎖雲寺は、江戸時代の初めに早雲寺の山内にあった一庵を引いて建立された禅寺で、この寺には歌舞伎の『箱根霊験記』で有名な勝五郎と初花の墓があるそうです。

箱根路は道中にコンビニがなく、ちょうど催してきた時にバイオトイレがあったので、ここで身を軽くします。

バイオトイレの先に立派な赤鳥居の大天狗山神社があるのですが、この付近の坂道は特にキツく、少しずつ体力を消耗していきます。
さらに、また雨がシトシトと降り出してきました。
女転し坂

大天狗山神社前の坂を登っていると、立て看板がありました。

女転し坂(おなごろがしざか)という物騒な名前が付けられたこの坂は、むかし、女性が落馬して谷底に落ちて命を落としてしまったことから、この名前がついたそうです。
男性だって落馬して命を落とした者がいたはずですが、当時は馬に乗る女性が少なかったからなのかな。
江戸時代の馬は現在の車。現在は女性も皆車を運転する時代ですが、昭和の時代は合流で割り込みをさせなかったり、無茶な運転をすると「やっぱり女性だ」と、訳のわからないことを言っていたオッサンがいましたが、それと一緒!?

そして、東京電力畑宿発電所看板の先の右側、

この階段を登るのが旧東海道です。
割石坂碑

その階段の名称は割石坂と言い、脇には割石坂碑がありました。
正眼寺の解説で出てきた曽我兄弟の一人曽我五郎が、ふじの裾野に仇討ちに向かう際に、腰の刀の切れ味を試そうと、巨石を真っ二つに切り割ったところと伝えられているそうです。
江戸時代の石畳

階段には石が敷き詰められ、良い雰囲気になってきました。

そして看板の通り、この場所からは江戸時代の石畳がそのまま残っています。
足が滑り実に歩きにくいのですが、京三条大橋に向かう江戸の旅人と、同じ道、同じ石畳を歩いていると考えると、この雨の中の厳しい山道でも心が晴れます。

そんな江戸時代の石畳は300mほどで終了し、ふたたび県道に戻ります。
接待茶屋

その県道との合流地点にかつてあったのが接待茶屋。
東海一の難所といわれた箱根路には数ヶ所の有料茶屋がありましたが、営業は昼間だけ。そんな中、文政七年(1824年)に無料で粥や焚火を提供する接待所がここに開設されたました。
そんな接待茶屋は昭和四十五年まで、この場所にあったそうです。

県道に合流後、少し歩いた先を左に入り、またも石畳を歩くのですが、

残念ながら2025年12月現在は工事中のため通行止めになっていました。

旧東海道を歩く人が多いことを想定して迂回路を示す地図があり、その通りに進みます(現在地が分からず理解するのに時間がかかりました)。

数百mほど歩き、この右カーブの途中で旧東海道の石畳と合流します。

本来ならば、石畳を抜けてこんな感じで県道に合流します。
道祖神

その合流地点のすぐ先に、久々の道祖神があります。
こちらも建立からかなりの月日が経っているであろう道祖神は、畑宿村境の塞神として祀られているそうです。
畑宿本陣跡

道祖神の先にあったのが畑宿本陣跡。屋号を茗荷屋と呼ばれた、地元の名主の本陣屋敷跡です。
家屋は大正元年に焼失してしまいましたが、日本庭園はそのままの姿で残されているそうです。
庚申塔

畑宿本陣跡の先の階段を上がって行くと、

段上に万治元年(1658年)造立の青面金剛像が祀られていました。

庚申塔の先で県道は右に折れるのですが、そこを斜め左に向かうのが旧東海道。

箱根路東海道の碑を右手に見ながら、この細い石畳を歩き進めます。
畑宿の一里塚

石畳みを再現30mほど進むと、現れたのが畑宿の一里塚。


こちらの一里塚は、何と二つの塚が当時のままの形で残されていました。
今まで二十箇所を超える一里塚を見てきましたが、これまでで一番の保存状態。いやー、イイもの見させていただきました。

ただ、ライカM11に付けてある35mmの標準域では画角が足りないので、iPhoneの超広角で大切に撮りました。
空中東海道

これまでの場所よりもゴツゴツして歩きづらい石畳を懸命に歩き、

ここを右に曲がると、

橋??

何と、石畳の下を国道1号線が走る空中東海道です。
国道は近年、山を切り拓いて整備したのかはわかりませんが、とにかく歩く者にとっては楽しい演出でした。
下の国道1号線は箱根駅伝の走路でもあるため、駅伝中継でぜひとも確認したいですね。

旧東海道は引き続き石畳の道を進みます。

そんな道中には石畳の解説が楽しめます。
石畳は斜めの排水路になっており、上を流れてきた雨水を石畳の外に追い出す工夫がされているそうです。

また、排水路は上流側に小さな石、下流側に大きな石を斜めに敷いており、段差を造り出すという形をしているそうで、水は大きな石の側面を伝わり、外側の沢へと流れ出る構造になっているとのことです。
江戸時代の土木工事の英知に驚かされました。

そんな石畳を300mほど歩き、この階段を登ると、

県道に復帰するのですが、県道にも石畳の装飾がなされていました。

すぐに箱根七曲りの最初のカーブに差し掛かるのですが、曲がり切った先に見える、

この階段を登ります。

階段を上がったら左に出てこの高架橋をくぐり、

さらにもう一つくぐります。

そしてカーブの先に見えるあの階段を登って行きます。
橿木坂碑

その階段の脇に橿木坂と書かれた石碑がありました。
東海道の難所とされた箱根八里の中でも、特に苦しんだのが橿木坂。江戸時代の旅人は、この厳しさを歌に残しました。
『さかをこゆればくるしくて、どんぐりほどの、涙こぼるる』

登る前から先人たちに厳しいプレッシャーを掛けられましたが、さあ、行ってみましょう。

かなり急な階段でしたが登頂。
大したことないじゃないか、と思いながら突き当たりを左に折れると、

またも階段・・・。

やっと県道に戻ったと思ったら、その先にまた階段がある(カーブミラーの左側)。

登って、

登って、

さらに登って、

やっと階段が緩やかになってきました。
すでに息は上がり、これまでの蓄積疲労の相まって、足はパンパンに・・・キツい!
『さかをこゆればくるしくて、どんぐりほどの、涙こぼるる』橿木坂は、まさにこの歌の通りの地獄坂でした。

ふと右を向くと、先ほど歩いて来た県道が、くねくねと蛇行しながら登っています。それを見ながら、距離は長くても、階段より坂道の方がマシだと思うのでした。

その先で分岐があり、斜め右が見晴し茶屋で、左が旧東海道。
地獄の橿木坂を登り切ったので、見晴し茶屋で名物しそジュースで栄養補給したいところですが、少しずつ雨が強くなって来たので先を急ぎます。

道中はハイキングコースになっていて、石畳の彫りは深くなく少しだけ歩きやすい。

しかし次第に暗くなり、雨がしとしと道はかなり荒れてきて、少しだけ薄気味悪いです。

そういえば、日曜日の昼間だというのに、ここまで誰一人ともすれ違わない。
江戸日本橋を出てからというもの、多くの同業者(旧東海道を歩く人ね)とすれ違ったり、並走したりしましたが、旧東海道随一の名所であるここ箱根街道なのに・・・なぜ?
まあ、考えてみると、こんな悪天候の日に歩く人など私だけですね。それにしても寂しいぜ。
ちなみに、この辺りからさらに雨が強くなったため、防滴仕様ではないライカM11での撮影は終了し、この後の撮影はiPhone16 Pro Maxに切り替えます。
前回の日没後の撮影でもダメでしたが、水にも弱い150万円のカメラってどうなのよ?
まあ、吐き出す絵は最高なんですが・・・。
猿滑坂碑

そして見どころのない石畳を500mほど歩くと、猿滑坂の石碑がありました。
この坂は危険で猿でも容易く登れなかったことから、この名前になったそうです。

そんな猿滑坂はご覧の通り、橿木坂よりも緩やかで登りやすい。

そして県道を渡って、

その先でもう一上がり。

さらにもう一度登ると、

おーい、上がりすぎでしょ!?

最後に階段を降りて高さ調整。降るんだったら最初から登らなければ良いのに、と、疲れ果てて愚痴が出てしまいます。
追込坂碑

階段を降りた先には石碑があります。

ここは追込坂、別名ふっこみ坂と呼ばれた場所で、この先の甘酒茶屋まで二町余りの緩い坂道が続きます。
旧東海道はこの右手にある丸太階段に行くのですが、私は間違えて直進してしまいました。
甘酒茶屋

こちらは甘酒と力餅が名物の甘酒茶屋です。

傍に説明板があり、それによると赤穂浪士の一人、神崎与左五郎の詫状文伝説を伝えるこの茶屋は、畑宿と箱根宿の中間にあり、旅人が一休みするには最適な場所だったそうです。
江戸時代、箱根八里の間には十三軒の茶屋があり、箱根越えの旅人で賑わったと言います。
ちなみに本来旧東海道は左側にこの甘酒茶屋を見るのですが、私は道を間違えているので右側に見ていますが、この時点でもまだ道を間違えたことに気付いていません。

そして旧道との合流点のこの場所でやっと気付きましたが、すでに戻る気力はなく、ここから合流します。
白水坂碑

石畳に復帰してすぐにあったのが白水坂。
ここは豊富秀吉軍が石落としに遭い引き返したことから、城見ず坂と呼ばれたそうです。

そんな白水坂は大した登り坂ではありませんでしたが、雨がさらに強くなり、石に掬われる場面が多く大変でした。

旧東海道の石畳はここで鋭角に曲がり、辺りはさらに暗くなります。
カメラ性能により写真は明るく見えますが、実際には相当暗く、さらに霧も立ち込めてきました。

この石畳の入り口に熊出没注意の喚起があったことを思い出し、カサカサと雨で葉が揺れるたびに後ろを振り返ってしまいます。今年は熊による被害が多いし、怖いなあ・・・。
大声を出さない、走って逃げない、冷静に立ち去るって書いてあったけど、いざ出没したら、絶対に慌てて走り出してしまいそう。
天ケ石碑

そして鋭角の曲がり角の先には天ケ石坂碑がありました。
その石碑の後ろに雨蛙に似ていると言われているあまが石が見えますが、この時は気付いていませんでした。

旧東海道の箱根路は、江戸の初めにそれまでの尾根伝いの湯坂路に替わり整備されました。
当初は箱根に群生するハコネダケという細竹を毎年敷き詰めていたようですが、費用と労力がかかることから、永保八年(1680年)に石畳の道になりました。
その後、文久八年(1863年)、徳川十四代将軍家茂が上洛する際に全面的に改修されたそうです。

そんな石畳ですが、現代人の柔な私の足では歩きづらく、となりにある緩やかな階段状の場所を歩き進めることにしました。
箱根馬子唄碑

そんな石畳にすっかり飽きてしまった頃、正面に立派な石碑が現れました。
これは箱根馬子唄碑。すでに建てられてから時間が経過しているため、何て書いてあるのか分かりづらいのですが、
『箱根八里は馬でも越すが、こすに越されぬ大井川』
と有名な歌が刻まれているようです。
箱根は馬でも越すけど、大井川はそれより大変だって!?
バカにすんな、いつも見慣れている大井川なんてものの数十分で渡れるけど、箱根路はここまでに六時間近く歩いているけどまだ着かないんだよ!
すみません、疲れ果てて性格が捻くれまくっています・・・。

そんな箱根馬子唄碑の先で道が開け、しばらくぶりに道路と交差。看板に元箱根まで十五分と書いてあり、元気が湧いて来ました。

交差点を渡ると、下り坂になりました。

すぐまた道路と交差し、

その真ん中を進むのが旧東海道です。

そしてゴツゴツ石の最後の難関を抜けて、

歩道橋を渡り、突き当たりを左に曲がります。
ケンペル・バーニー碑

すると立派な石碑がありました。
これはケンペル・バーニー碑。

ドイツの博物学者のケンペルが世界に箱根の美しさを紹介しました。また、イギリスの貿易商バーニーはこの地に別荘を構えたそうです。

ケンペル・バーニー碑の先で久々にアスファルトの道になります。

霧で霞んだその先に、箱根名物の大鳥居が見えて来ました。
賽の河原

その大鳥居の横には賽の河原と呼ばれる場所があります。
ここは地蔵信仰の霊地として多くの石仏石塔が並んでおり、江戸時代東海道を旅する人々の信仰を集めました。

しかし明治に入ると仏教の排除から多くの石仏が失われたそうですが、それでもこの規模は凄かったです。

そしてここから芦ノ湖を見てみましたが、ご覧の通り近くにある桟橋すらもほぼ見えない感じ。
それでも、外国人をはじめとするかなりの数の観光客がいたのにはびっくりしました。

旧東海道は賽の河原より国道1号線と合流したのですが、すぐにこの場所で左に逸れます。
葭原久保の一里塚跡

国道を離れてすぐの芦ノ湖の横にあったのが葭原久保の一里塚跡。

現在一里塚は残っていませんが、石碑と古びた説明看板がありました。
緑の文字の石碑とはかなり斬新!?
江戸日本橋から二十四里(約96km)。いよいよ次の一里塚で日本橋から100kmになります。
旧東海道箱根杉並木碑

葭原久保の一里塚跡の先から箱根杉並木になります。
この頃になると目的地があとわずかなので、気持ちにも余裕が生まれ、霧に包まれた杉林がなんとも幻想的だなあ、と思いながら足を進めます。

この杉並木は江戸時代、旅人に木陰を与えたり、風雪から守ったりと大切な役目を果たして来たそうです。

そんな箱根杉並木とはここで別れ、

国道1号線を渡ります。

そして渡ったすぐ先のこの県立恩賜箱根公園の看板を右折し、

すぐに今度は左折します。

この道の突き当たりにあるのが今回の目的地になります。
箱根関所

そして、ついに本日の目的地である箱根の関所に到着しました。
箱根関所は江戸時代の雰囲気を忠実に再現されていて見どころが多い場所ですが、この日は大規模な工事が行われていました。
雨によりびしょ濡れになった服で入るのも憚られるので、次回出発する時にじっくり観覧したいと思います。
歩みの記録

長く険しい箱根路でしたが、やっとの思いで目的地である箱根関所に到着しました。
では、いつものようにiPhoneのフィットネスアプリで、歩みの記録を見てみましょう。

まずは地図から。出発は小田原市でしたが、遠い過去のことのように感じます。
そこから南西方向に箱根路を登り続けました。
この地図では、歩んだ速度が遅くほど赤が濃くなりますが、ちょうどクネクネ曲がっている橿木坂の場所で赤が濃くなっており、箱根路の中でも特に厳しい坂だということがわかります。

続いては旅の詳細です。
小田原宿を8時過ぎに出発して、箱根宿に到着したのが14時36分。
距離は17.7kmと最長ではありませんでしたが、総歩行時間は6時間23分ということで、今までの宿場間の時間としては一番でした。やっぱり坂道は時間を要します。
そして今回の注目点は上昇した高度。何と約1000mでした!
半世紀以上を生きていますが、生涯で一番の高さを自らの脚で上がったと思います。
いやー、意外と登れちゃうもんですね。
ということで、達成感を存分に味わった今回の旅でした。
さて、次回は箱根八里の後半戦。箱根宿を出発して三島宿を目指しますので、興味のある方は下のバナーから続きをご覧ください。












すごい、すごい。昔の東海道の雰囲気満載の道中ですね。‼️ 実際に私自身が箱根超えをしている気分になりました。ありがとうございます。次回は下り道。いいお天気になると良いですね。お気をつけて⋯。楽しみにしています。
asamoyasiさん、いつもありがとうございます
雰囲気満載ですが、石畳はとっても足にきました
そして雨も☂️
コメント励みになります