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【其ノ二十】東海道五十三次を歩く(府中宿→丸子宿)

今回は旧東海道踏破の旅の続き。

前の週末は静岡マラソンに参加したため、練習や準備があり、東海道歩きは三週間ぶり。

ということで、前回到着した駿府城公園横の江川町交差点までやってきた。

静岡マラソンはこの交差点が1コーナー。先週末はここから試練の42.195Kmが始まったが、今日はのんびり旅を楽むつもり。

では、出発進行!

WBC日本戦で人影まばらの静岡市中心街

まずは江川町交差点を左折し、

スクランブル交差点を右折。

静岡市民に”おまち”と呼ばれる一番のメインストリートだが、今日は人が少ない、というか、ほぼいない!?

朝8時台ということもあるが、あまりにも少な過ぎる。

実は本日10時からWBC決勝ラウンドの日本初陣、日本vs.ベネズエラが行われることが大きく影響しているのだろう。静岡市の中心に位置する呉服町通りの商店街だが、人影はまばら。

元高校球児としてはWBCが気になるところだが、貴重な週末はやっぱり歩き旅。

静岡市役所を過ぎると、

七間町通りとの交差点を左折するだが、この場所に最初の目的地がある。

札の辻

その交差点の伊勢丹前にあるのが、札之辻趾標石。

若い頃はここ”おまち”の中心を何度も歩いたが、こんな標石があったとは気づかなかった・・・。

札の辻とは、高札場がある交差点のこと。往時はこの場所に設置されていたようだ。

そういえば、令和五年、伊勢丹に復元された高札場のモニュメントが設置されていたが、撤去されたのか(気づかなかっただけかも)。

そして国道362号線を渡り、

二本目の交差点を左折し、

200mほど進んだ先の、この交差点を左折。

少しわかりづらいが、進行方向右側の歩道に書かれたこのペイントが目印。

そして新通りをまっすぐに進み、安倍川を目指す。

元祖わさび漬 田丸屋総本店

少し歩くと田丸屋総本店がある。

私たち静岡市民が県外に出向く際、手土産としてよく購入するのが静岡名物のわさび漬で、田丸屋がその元祖。創業宝暦三年(1753年)の老舗だそう。

まだ8時台ということで店が開いていないが、県外の方はぜひご賞味を。

本通りと新通り

現在歩いている通りは新通り。となりには大きな本通りがあるので、近年造られた新しい通り=新通りだと思っていたが・・・。

調べてみると名前の通り、本通りに対しての新通りなのだが、この道が完成したのは江戸時代初期と、歴史ある通りだった。

慶長十四年(1609年)、徳川家康公による駿府城下町整備に伴い、現在の本通りを通していた東海道は、現在の新通りを通す新ルートに付け替えられたそう。

うーん、地元民だが、知らなかった・・・。

府中の一里塚跡

五街道の一里塚は、慶長九年(1604年)に整備された。この辺りには府中の一里塚があるのだが、前述の通り新ルートの新通りに付け替えられる前、元ルートの本通りに設置されていた。

ということで、秋葉神社のある交差点を右に曲がり、

すぐの本通りを左折すると、

向こう側に一里塚の看板があった。

実は私、毎回旧東海道の旅に出かける際、このすぐ横にあるバス停から出発しているのだが、灯台下暗しとはまさにこのことで、この看板はまったく気づかなかった・・・。

恥ずかしながら地元の歴史発見!私はボッシュート(なんのこっちゃ!)

江戸日本橋より四十五里(約180km)。我ながらよく歩いてきたと思う。

そのまま旧東海道の元ルート(本通り経由)を歩いてもいいのだが、せっかくなのでガイドブックに従い、江戸時代に長く使われた新ルートの新通りに戻る。

そして駿河伏見稲荷神社の少し先を左折し、しあわせ通りを直進。

地震防災センターの先を右に曲がると、次の目的地がある。

双街の碑

稲荷神社の境内にある双街の碑が目的。

江戸時代の初期、長い戦国の時代を経て住民がすさんでいるところ、この駿府の町でも男女野合の悪習が盛んに行われていた。

晩年に大御所として駿府城で余生をおくっていた家康公は、その住民の気持ちを和らげ、この悪習を正すため、この辺りに遊郭を誘致した。

遊郭は昭和の時代まで続いたが、昭和三十三年法律により廃止されたそうだ。

この碑は、この遊郭で働いた女性たちの労に想いを馳せるため、明治二十七年に設置された。

そういえば、地元の老人に、遊郭に行ったと聞いたことがあったなあ。

駿府キリシタン聖堂跡碑

双街の碑近くの安倍川町公園の敷地内に、駿府キリシタン聖堂跡碑がある。

慶長十六年(1611年)、この辺りにイエズス会聖堂が建立されたが、翌年キリスト教の禁圧が決定され破壊された。

この碑は、平成三年に、静岡キリシタン文化研究会により建てられたもの。

公園の片隅には歴史深い灯籠があったが、これもキリシタン聖堂にまつわるものだろうか。

川会所跡と由比正雪公之墓趾碑

新通りを進むと東名高速道路の静岡インターチェンジ取付道路と交差するのだが、その交差点にある弥勒交番は江戸時代、安倍川の川越しを監視した川会所だった。

その裏手の弥勒緑地には、由比正雪公之墓趾碑。この近くの梅屋町の旅籠梅屋で捕吏に包囲され、自刃したのだそうな。

元祖安倍川もち 石部屋

弥勒緑地のすぐ先に『安倍川もち』ののぼり旗が見えてきた。

こちらが安倍川もちの老舗、石部屋。

たしか安倍川もちを販売する店は、この辺りに三店ほどあったと記憶しているが、石部屋は創業文化元年(1804年)で、一番繁盛しているように思う。

安倍川もちは家康公が命名。きな粉をまぶした餅を金な粉餅と称して献上すると、縁起が良いと喜び、命名したそう。

家康公が亡くなったのは元和二年(1616年)で、石部屋の創業は文化元年(1804年)だが・・・元祖??

尚、私は石部屋の向かいの安倍川中学出身だが、運動会の日は特別に昼食のデザートとして安倍川もちが出た。

安倍川義夫之碑

石部屋のとなりに歴史深い石碑があるが、こちらは正直な川越人夫の顕彰碑、安倍川義夫之碑。

元文三年(1738年)、紀州の漁夫が百五十両の大金が入った財布を安倍川に落としてしまった。

近くにいた人夫の喜兵衛はその財布を拾い、旅人の後を追い、宇津の谷峠(ここから10kmほど先)で引き返してくる漁夫と出会い、財布を渡した。

漁夫は喜び礼金を払おうとしたが、喜兵衛は「拾った落とし物を落とし主に返すのは当たり前のこと」と言って、礼金を受け取らなかった。

そこで漁夫は駿府町奉行所に礼金を届け、町奉行は喜兵衛を呼び出し礼金を渡そうとしたがそれでも受け取らないので、代わりに奉行所からほうびの金を喜兵衛に渡したそう。

昭和四年、有志の募金により、この地に碑が建てられた。

毎朝のランニングコースにあるこの碑の意味を、やっと知ることができた。

そして、江戸時代は川越し人足による徒歩渡しだった、安倍川を渡る。

この場所に橋が架けられたのは明治四年ごろで、このトラス橋は大正十二年製の三代目。

橋門構に半球形をあしらった特徴的な橋名額は従来からのものだが、右から左に読む”橋川倍安”の文字は建設百周年記念の際に取り付けられた。

水の量が少なく江戸時代は徒歩渡しだった安倍川橋は、現在も水量が少ない。

高林寺

安倍川を渡り、可愛らしいお地蔵さんを祀るのは高林寺。

いつも境内の庭木が綺麗に剪定され、城の土台のような石垣が特徴の高林寺は、手越の灸の元祖として知られているそう。

この辺りに名残り松があり、成長し交通の妨げになっていたが、近年切り落とされてしまったようだ。

私の子供のころは、この先にも松が何本かあったが、現在はこの一本のみ。江戸時代の名残りが、少しずつ消えていくことに寂しさを覚える。

一本松の先の五差路を斜め右に進み、

次に備えて国道1号線を横断。

横断歩道の先に見えるのはソメイヨシノ。本日は3月15日なので、開花はまもなくだろう。

その先の佐渡の交差点を斜め左に入るのが旧東海道。

さわたりの手児万葉歌碑・子授地蔵尊

佐渡公民館の敷地内にさわたりの手児万葉歌碑がある。

“佐渡”は万葉集にうたわれた歴史ある地名だが、その地名が地図上から消えたことを惜しんで、この碑が建てられた。

その向かい側に子授地蔵尊がある。

子に恵まれない夫婦が地蔵を借りて帰り、篤く信仰すれば子が授かると言われているそう。

・・・地蔵、貸してくれるの??

その先の信号機を右へ。ここは少し前まで旧東海道は真っ直ぐだったが、近年線形が変わった。

往時は安倍川を渡った先から丸子宿入り口まで松並木が続いていたが、現在は数本が残るのみ。

名残り松の先も、近年道路の線形が変わった場所。かつては丸子宿まで真っ直ぐだったが、現在は大きく右に曲がるカーブの途中で左に入る。

丸子の一里塚跡

するとすぐに、大正十四年建立の一里塚標石がある。

この場所は丸子の一里塚があった場所だが、目印はこの標石のみのようだ。

最後に現存する一里塚を見たのは三十七里の岩渕の一里塚。その後静岡市に入るわけだが、一つ残らず撤去してしまったのが寂しい限りだ。

静岡市!もっと歴史を大切にしてくれ!

江戸日本橋から四十六里(約184km)。

丸子宿江戸見附跡

丸子の一里塚跡の先で道が細くなるのだが、この場所が丸子宿の江戸(東)口。

丸子宿は五十一ある東海道の宿場で一番小さな宿場だったが、安倍川の川越しの権利が与えられ、川止めになると大いに賑わったという。

宿場内の現在はこんな感じ。

水神社や、

歴史を感じる石垣に、

色とりどりの無人販売など、なかなか良い雰囲気。

脇本陣跡と問屋場跡

明治天皇御小休所趾碑があるこの場所は、丸子宿で二軒あった脇本陣のうちの一軒があった場所。

その向かいのお宅はかつて問屋場だったようだ。

本陣跡

その先に石碑。ここが丸子宿の唯一の本陣があった場所だ。

横田家が務めた本陣は建坪二百八十坪だったそう。

現在この場所は建て替えの真っ最中で、その奥に歴史深い木造建築が顕になっていた。

江戸時代よりの建物だろうか・・・。

脇本陣跡

本陣のとなりのこちらが、丸子宿のもう一つの脇本陣になる。

藤波家が務めたこちらの脇本陣にも明治天皇御小休所趾碑。

東幸は明治元年と二年の二度行われましたが、それぞれの脇本陣に泊られたのか、それとも安倍川の川止めにより丸子宿でそれぞれの脇本陣に泊られたのか分からないが、同じ明治天皇御小休所趾碑が両方の脇本陣跡にあっるのが面白い。

そして、なぜ、本陣に泊らないのか。一般の旅人には開放されなかった本陣は、多くが江戸末期に経営が厳しくなったようなので、明治時代は脇本陣の方が立派な建物だったのかと推測するが、お詳しい方ご教授を。

お七里役場跡

工場の敷地内にお七里役場だったことを示す標石があった。

お七里役場とは、紀州藩が江戸までの七里毎に置いた飛脚所だが、その目印は由比宿以来。

この立派な標石はまだ新しいようだ。旧東海道を歩く者にとって、旅の楽しみを増やしてくれるのは大歓迎。

そして七里役場のすぐ先に、丸子宿で一番の有名なお店が現れる。

とろろ汁 丁子屋

東海道の三大名物料理は、桑名の焼き蛤、新居の鰻蒲焼、そして丸子のとろろ汁。

この丁子屋はここ丸子宿で、代々とろろ汁を提供したお店だ。

自然薯を味噌だしで割ったもので、東海道中膝栗毛では弥次さん喜多さんが食したことで、一躍江戸でも有名になった。

ちなみに作者の十返舎一九は今日出発した府中宿の出身で、弥次さん喜多さんも同じく府中宿出身とされている。

店舗の前には、東海道五十三次の丸子宿の浮世絵が掲げられていた。弥次さん喜多さんが丁子屋に立ち寄るシーンが描かれてる有名なあの絵だ。

この浮世絵の構図はこんな感じだろうか??

まだ11時だが、今日も多くの観光客が丁子屋でとろろ汁を楽しんでいた。

私も以前、ここで食したが、実に濃厚な美味しいとろろ汁だった。

また、店主が東海道五十三次の浮世絵を集めるのが趣味ということで、畳敷の店舗内に多く飾られていて、この店が舞台の丸子宿の浮世絵もあったと記憶している。

歩みの記録

本日午前の部はここ丁子屋で終了。

では、いつものようにiPhoneのフィットネスアプリで、旅の記録を見ていくことにする。

まずは地図から。

府中宿からは南西の方向に進み、静岡市の中心を劈く安倍川を渡りその後も南西へ。

そして丸子宿が近づくと、今度は西に向かった。

次は旅の詳細。

府中宿から丸子宿までは一里十六町。現在の道では6.3kmになるが、少々寄り道をしたため、7.35kmを歩き、所要時間は2時間半だった。

静岡市中心部は平坦なので、上昇した高度も55mと少なく、平均心拍数は90拍/分を下回った。

さて、次回は丸子宿から難所の宇津谷峠を経由して、岡部宿に向かう旅になる。

では、次回もどうぞお楽しみに。

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大福
モータースポーツをこよなく愛す、セナプロ世代の四十代。 サーキット観戦デビューは、1996年フォーミュラニッポン第7戦の富士スピードウェイ。ど迫力のエキゾーストノートとタイヤの焼ける匂いを実感し、それまでテレビでしか観戦してこなかった事を悔やむ。以降、F1・WEC・スーパーGT・スーパーフォーミュラなどを富士スピードウェイ・鈴鹿サーキットを中心に多数観戦する。