今回は旧東海道踏破の旅の続き。
この日の前半は岡部宿を出発して藤枝宿の下本陣に到着。そして後半はここ藤枝宿から島田宿を目指す。
私事だが、ちょうど10年間、某メーカーの藤枝市・島田市(・焼津市)の責任者として仕事に従事してきたが、この春に静岡市へ転勤になった。
ということで、桜が満開の温暖な春の日に、長らくお世話になったこの地に別れを告げながら、歩いて行こうと思う。

では、ライカM11を首からぶら下げて、藤枝宿下本陣を出発!
上本陣跡

今回の出発地である下本陣のとなりにあったのが藤枝宿上本陣。
江戸日本橋からここまで、ほとんどの本陣跡には標石で案内されていたが、藤枝宿は歩道タイルに標識で案内されていて、なんとも風情のない・・・。

江戸時代は藤枝宿の中心として栄えた上本陣だが、現在は商店街の中にポッカリと空き地になっていた。
そういえばもう一つの本陣の下本陣も駐車場に・・・。
問屋場跡

二つの本陣のとなりには問屋場が設置されていた。

現在の姿がこちら。
問屋場は幕府の公用旅人の荷物の手配や馬の手配を取り扱う場所だったが、警察の役目も請け負っていたという。
藤枝宿の問屋場だった場所には、現在も警察官が常駐していた。
正定寺

問屋場のすぐ先には正定寺がある。

本堂前の『正定のマツ』と呼ばれるクロマツは、享保十五年(1730年)に田中城藩主だった土岐丹後守頼稔が大坂城代となった時に寄進されたものだという。
すでに三百年近い樹齢だが、傘状に枝張りした美しい姿に整えられており、見応えがあった。
金比羅山・瀬戸川桜まつり

瀬戸川の桜トンネルは藤枝市で一番の桜スポット。この日はちょうど金比羅山・瀬戸川桜まつりが開催されていて、多くの観光客が満開の桜を楽しんでいた。

瀬戸川に架かる勝草橋から見た桜が特に美しく、私も多くの観光客とともに堪能させてもらった。
周辺は車の大渋滞だったが、こんな景色を気軽に楽しめるのも歩き旅の醍醐味だ。
志太の一里塚跡

勝草橋を渡り切った場所に、東海道一里塚蹟と刻まれた、志太の一里塚を示す標石がある。

志太の一里塚は実際にはここから50mほど西の、白い軽自動車がいる付近の両側にあったそうだ。

江戸日本橋から数えてちょうど五十里(約200km)の一里塚だが、残念ながら塚やなどは現存しておらず、柵に囲われた中に、標石と説明看板、そして秋葉山常夜燈があるのみ。できれば復元してもらいたい。
為善館跡

志太の一里塚跡のすぐ先に為善館跡の標石がある。
為善館は寺子屋を学校化したようなもので、明治六年に創設。明治十九年の記録によると、百二十人くらいの生徒が学んでいたという。
明治二十三年に青島尋常小学校創立により閉校した。

その先の名残りの松は、歩道を遮断するように斜めに生えていた。この状態でよく切られずに残ったものだ。
岡野繁蔵出生地標石

その名残りの松のすぐ先に石碑がある。

これは裸一貫から南洋のデパート王となった岡野繁蔵の出生地の碑。
明治二十七年にこの地に生まれた岡野繁蔵は、二十一歳でインドネシアのスマトラ島に渡り雑貨貿易商として成功し、更にスラバヤに千代田百貨店を経営して繁栄を極めたが、先の戦争でやむなく日本に切り上げた。
戦後は衆議院議員になり、郷土のために貢献した。

その先の名残りの松は道路を覆うように生えている。この辺りの松はお行儀が良くないようだ。

そして青木の五差路に出るが、旧東海道はそのまま真っ直ぐに進む。

渡った先は緩やかに曲がる旧東海道らしい雰囲気の道。道幅はあるが、主要道が並行に走っているので交通量はかなり少なく、ほぼ先に見える西友ストアに向かう車のみ。写真の左に見えるのは津島神社だ。

その西友ストアが面している石垣が時代を感じさせる。

そして大きな交差点を渡ると松並木が残っていた。藤枝市は往時の建物などはあまり残っていないが、松は多く残っている。
田中藩領榜示石蹟

そんな名残りの松の片隅に標石が建っていた。これは田中藩領の榜示石があったことを示す標石。
ここ瀬戸新屋村は田中藩領と掛川藩領が入り組む特異な村で、往時は藩境に一丈あまり(約3m)の榜示石が建てられていて、『従是東田中領』と刻まれていた。
榜示石に刻まれた字は藪崎彦八郎が書いたもので、その書の見事さは旅人の文人を驚かせたという。
鏡池堂

田中藩領榜示石蹟の先に御堂があるが、こちらは三十三年に一度開帳されるという鏡池堂。

ちょうど満開の桜の下に、

龍神が棲む鏡ケ池から示現(じげん)したという、六地蔵が安置されていた。
鏡池堂の前を仕事で頻繁に通るが、地元の方が祭事をする姿をよく目にしている。大切にされているのだろう。

鏡池堂の先で旧東海道はとなりから来た道と合流する。
古東海道蹟

その先にまた標石と説明看板があり、

細い道が伸びている。
昭和三十年代まで、ここから西に瀬戸山の丘が続いていて、細い道が瀬戸山の上を通ってその先の内瀬戸の部落へと通じていたが、これが中世からの瀬戸の山越えと呼ばれた古東海道になる。
後に東海道が新設されても、大井川の洪水が発生すると、旅人はこの道を通ったそうだ。

主要な分かれ道ということで、東海道追分の標石もあった。

そしてまた松並木の下を歩く。

にゃんこが出てきた写真右のフェンスが次の目的地になる。
延命地蔵堂

フェンスの中にはベンチが並び、その前に延命地蔵堂がある。
ここは寛永四年(1627年)に大井川氾濫の犠牲者供養のために創建された無縁寺の跡になる。

境内には大正九年建立の庚申塔があり、この日も綺麗な花が手向けられていた。
染飯茶屋蹟

延命地蔵堂のとなりに染飯茶屋蹟の標石があった。
名物の染飯は強飯をクチナシで染め、薄く小判型にしたもので、疲労回復に効くと評判だったという。
石野モータースには染飯の包み紙に押した版木を残しているそうだ。
千貫堤

その向かいには千貫堤の標石がある。
前述の通り、この辺りは大井川の大洪水に悩まされており、寛永十二年(1635年)に田中城主となった水野監物忠善は領内を洪水から守るために、一千貫もの老銀を投じて、長さ360m、高さ3.6mの大堤防を造築したそうだ。

先には育生舎跡と書かれた標石があるが、ここは明治七年に創設された育生舎という名の公立小学校があった場所。

S字カーブを抜け、信号機を渡ると、

松並木の手前にまたも標石がある。
田中藩領榜示石蹟

先ほども書いたが田中藩は入り組んでおり、ここにも高さ一丈(約3m)あまりの田中藩領榜示石があり、『従是東田中領』と刻まれていたという。

銘酒『喜久酔』で有名な、明治元年創業の青島酒造を右手に見ながら進む。
鞘堂

瀬戸橋を渡った先に見事な桜が咲いており、その下にあるのが鞘堂。天保四年(1833年)建立の秋葉山常夜燈を納めているそうだ。
上青島の一里塚跡

藤枝市は松並木が多く残っているが特にこの辺りは多く、その中に標石がある。

ここが江戸日本橋から五十一里目になる上青島の一里塚があった場所。

このブログでは一里を4kmとして計算しているが、実際一里は3.92727kmなので、日本橋からちょうど200kmの距離になる。
いやー、自分の足だけでそんな距離を歩いてきたかと思うと感慨深い。

標石には『南約十米道路東円形にて約百二十平米』と刻まれている。要するに、ここから南に10mほど行った道路の東側に、120㎡の円形の塚があったらしい。
昭和五十七年に一里塚が発掘調査され、塚の形を表す円形の石積みが見つかったそうだ。

上青島の一里塚跡の先で県道(旧国道1号線)と合流し、

そして藤枝市から島田市になる。

いつも気になっている魚一という名の日本料理屋。一度寄ってみたいと思いながらも、見るからにお高そうなのでいつもスルー。
ちょうど昼だが、もちろんこの日も見るだけー。

六合駅前の交差点で横断歩道を渡り、

旧東海道は右へ。

そして数百mほど歩き、また県道に合流する。まあ、県道を真っ直ぐ歩けばいいのだが、旧東海道を可能な限り忠実に歩くのが今回の旅のこだわりの一つだ。

お茶屋の一言商店の前には昭和天皇御巡察之處碑がある。これは昭和二十一年の昭和天皇巡幸を記念して建てられた石柱。
仕事で頻繁に前を通るが、この商店の入り口の戸がハイカラすぎてつい見入ってしまう。

栃山橋から望む桜の花が綺麗だった。
監物川と監物橋

こちらは監物川に架かる監物橋。

なんてことない農業用水用の橋だが、袂に説明看板が設置されている。
寛永十二年(1635年)に田中藩主の水野監物忠善が、水不足に悩む栃山川以東の村々のために大井川から取水した水路を開削したそうだ。
農民はこれに感謝し、この水路に藩主の名を冠したという。
そういえば、先の千貫堤も水野監物忠善により設置されたと書いてあった。当地に多大なる貢献をした藩主だったのだと知る。

監物橋の向かいのこちらの店は、一階が床屋で二階がカツラ専門店。理容師によるカツラの販売は信頼性十分だが、意外にない組み合わせにいつもほくそ笑む。
ちなみに、となりはLe Dessinという人気のラーメン店。

その先の御仮屋の交差点のY字路を右に進むのが旧東海道。

道幅は広いが、この道はすでに主要道の役割は終え、ほとんど車が通らない。

民家の庭には桜が綺麗に咲き誇っていた。
東見附跡

民家に看板が設置されている。ここが島田宿の東見附があった場所で、往時は枡形の線形になっていた。
ここから先は島田宿。島田宿は東海随一の難所大井川を控え、川越宿場として大いに賑わったという。

こちらは、酒小まん頭が有名な中村菓子舗。この日も店に立ち寄りお土産に買って帰った。
島田の一里塚跡

緩く曲がった先にあったのが島田の一里塚。

商店街の中ということですでに塚は現存しておらず、標石と説明看板が設置されていた。
島田宿の一里塚は幕末の文献によると幅五間二尺(約9m)で、北側のみ。塚の上には榎が植えられていたそうだ。
江戸日本橋から五十二里(約208km)。

島田の商店街も例に漏れずシャッターが目立つが、人気の御菓子処は今も元気に営業中。
この龍月堂のいちご大福は絶品で、よく利用させていただいている。
刀匠島田顕彰碑
問屋場跡

龍月堂の並びには大久保新右衛門が務めた問屋場があった。
島田宿の問屋場は難所大井川が控えていたため特に重要で、伝馬百匹、人足百三十六人が常駐するとても大規模な拠点だったという。
刀匠島田顕彰碑

問屋場の筋向いに刀を模した石碑がある。刀匠島田顕彰碑だ。
島田の刀鍛冶は室町時代から四百年続くという歴史を持ち、繁栄時には多くの刀鍛冶がここ島田に軒を連ね、刀鍛冶集団を形成し、助宗、義助、広助を主流として、代々同名を踏襲してきた。
そんな島田の刀剣は、今川氏、武田氏、徳川氏より高い評価を受け、珍重されたという。

中村菓子舗の酒小まん頭、龍月堂のいちご大福と紹介してきたが、よしむらの鯛焼も島田の名物。この日は六匹買って帰った。
下本陣跡

現在は時計台が設置されているこの場所は、かつての本陣があった場所。

時計台の下には本陣だったことを示す標石が設置されていた。
島田宿には三軒の本陣があり、ここは置塩藤四郎が務めた下本陣だった。
中本陣跡

そのすぐ先の呉服屋の軒先にも標石がある。

こちらは大久保新右衛門が務めた中本陣があった場所になる。
上本陣

そのとなりの建物にも本陣の標石。こちらは村松九郎治が務めた上本陣があった。

その上本陣があった場所は、島田では有名な三布袋(さんぽてい)というホテル割烹になっている。
三布袋は創業百余年ということで、経営者はご子孫ではなさそうだが、この地が江戸時代と同じ宿屋として営業していることがちょっと嬉しい。
歩みの記録

ということで、今回の旅はここ上本陣跡の三布袋で終了。正直見どころはあまり多くない藤枝宿から島田宿までの道中だが、私にとっては10年間お世話になった思い入れの強い道で、車では知り得なかった発見を多くすることができて非常に楽しかった。
では、いつものようにiPhoneのフィットネスアプリで、旅の記録を見てみる。

今回は藤枝市から最初は南に進み、その後は島田市に向けて西南西の方向に足を進めた。

続いては旅の詳細。藤枝宿から島田宿までの距離は二里八町で、現在の道では9.3km。今回は寄り道も少なく、知り尽くした道なので迷うこともなかったので、実測値に近い10.17kmを3時間17分かけて歩いた。
上昇した高度は143mといつもより多いが、急な上り坂はなく、ほぼ平坦の道を歩いていると感じていた。
ということで、今回は以上。次回は島田宿から金谷宿を目指すので、興味のある方はぜひ。










大福様 こんにちは。瀬戸川の桜、見事ですね。名残の松も面白い。こういった一見邪魔になるような木が残されているのは時々見ることがありますが、残しておこうとする地元の方々の思い入れが感じられて心が和みます。中には切ろうとすると、祟があって残されているという木もあるとか。 木にもいろいろな歴史があるようです。田中藩については高野山・奥の院で土岐頼稔の五輪塔(倒れてバラバラになっていた)を以前、見つけました。土岐氏と言えば歴史ある武家の名門ですので、少しばかり寂しい気持ちになりました。掛川については、北条家、太田家の墓所もあります。染飯茶屋の染飯、黄金色をしてさぞ美しかったことでしょうね。復元して販売されているのでしょうか。水野忠善の五輪塔は奥の院にきれいな形で残っています。これからもお気をつけて⋯。次回、楽しみにしています。