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ウィリアムズFW16 セナの悲しみを越えてデーモン・ヒルが躍進したマシン【ミニカー#55】

1/43のミニカーを実車のように撮影し、実車の現役時代を紹介するこのコーナー、今回はウィリアムズが1994年のF1に参戦するために開発したウィリアムズFW16を取り上げていきたいと思う。

マシンデータと戦績

まずはウィリアムズFW16の主要諸元をチェック。

年式1994年
カテゴリーF1
チームウィリアムズ
マシン名FW16
デザイナーエイドリアン・ニューウェイ
エンジンルノー

現在もレッドブルで活躍する空力の鬼才エイドリアン・ニューウェイがデザインしたマシン。

次にウィリアムズFW16の戦績を見てみよう。

コンストラクターヒルセナクルサードマンセル
シーズン順位1位2位8位9位
シーズンポイント118P91P0P14P13P
優勝7回6回0回0回1回
ポールポジション6回2回3回0回1回
ファステストラップ7回6回0回1回0回

セナの事故の後、カーナンバー2にはデビット・クルサードやナイジェル・マンセルなどがそのマシンに乗って参戦した。

ヒルが躍進したマシン!

カーナンバー0がデーモン・ヒル、カーナンバー2をアイルトン・セナとして開幕を迎える。

34歳になったセナは、ウィリアムズという最速のマシンを手に入れて一発の速さでより磨きがかかり、開幕から3戦連続でポールポジションを獲得する。

しかし、イモラで行われたサンマリノグランプリでレース中の事故で命を落とすことになり、1994年のセナは記録上ノーポイントということになった。

セナの事故により、急遽ウィリアムズのエースドライバーになったヒルは、ベネトンのミハエル・シューマッハとドライバーズタイトルをかけて一騎打ちとなる。

速さに勝るシューマッハは、そのアグレッシブなドライビングとFIAのチャンピオンシップを盛り上げようとする陰謀(あくまで推測)により、不当とも思える2戦の出場停止と2戦の失格が下される。

その結果ドライバーズチャンピオンシップは一気につまり、首位のシューマッハに対しての2位ヒルのポイント差はわずかに1ポイントで最終戦のオーストラリアグランプリを迎える。

ポールポジションはCARTシリーズから復帰したナイジェル・マンセルで、チャンピオンシップの主役であるシューマッハがグリッド2番手、その後にヒルが3番手とつづく。

ポールポジションのマンセルは盛大にホイールスピンをして出遅れ、トップシューマッハ、2位ヒルとなり、お互いにファステストラップを記録し合いながら、3番手以下を引き離す。

36周目、シューマッハは直角コーナーのイーストテラスでコースオフしてウォールにぶつけて力なくコースに復帰する。

追いついたヒルはイーストテラスのあとの右コーナーでインをさす。

するとシューマッハは強引にラインを被せて2台は接触。

シューマッハはその場でリタイヤするもの、ヒルはその後も走るが左サスペンションのアッパーアームが曲がってしまいその後リタイヤとなり、シューマッハのドライバーズチャンピオンが決した。

シューマッハはウォールにぶつかった際マシンを損傷しており、ヒルをわざと道連れにしたのだという声が上がったが、真相は定かではない。

その3年後の1997年最終戦、フェラーリに移籍していたシューマッハは、チャンピオンシップを掛けて戦っていたウィリアムズのヴィルヌーヴに対して、接触を誘発して両者リタイヤを狙った場面があり、世間から大きくバッシングされ、1994年の事故が再びクローズアップされたのだった。

ウィリアムズFW16のミニカーを実車のように撮る!

それでは1/43のウィリアムズFW16を撮影する。

もちろんテーマはいつものように、『実車のように撮る!』。

前年までのキヤノンカラーから一転、この1994年からロスマンズカラーに。

ウィリアムズは1997年までロスマンズをメインスポンサーに置くが、年々他のスポンサーが増えたため、FW16のロスマンズカラーが一番シンプルで美しく見える。

ブーメラン型のリヤミドルウイング。

同じくリヤディフューザーもブーメラン形状となっていることがわかる。

前年のドライバーズチャンピオンアラン・プロストが引退したため、前年のコンストラクターズタイトルを獲得したウィリアムズのデーモン・ヒルが前年につづきカーナンバー0を使用。

スターティンググリッドにマシンを移動。

奥に見えるのが、この年からヒルのライバルとなるシューマッハのベネトンB194。

カーナンバー0がルノーのエンブレムになっていることから、このマシンは開幕戦のブラジルグランプリ仕様ということがわかる。

この年から大幅なハイテク装備の禁止がレギュレーションで決められ、アクティブサスペンションも廃された。

ウィリアムズは特にアクティブサスペンションの開発に注力していたため、1990年のFW13B以来、久々のパッシブサスペンションの開発に苦労したという。

ハイノーズと吊り下げ式ウイングが主流になり始めた1994年も、従来どおりのローノーズを採用したFW16だったが、翌年のFW17からハイノーズを採用することになる。

このマシンは開幕戦のブラジルグランプリ仕様だが、イモラでのセナの事故を受け、ディフューザーの短縮、フロント翼端板のボーテックスジェネレーターの撤去、エンジン出力を低下させるためのエンジンカバーの開口、コクピット開口部の拡大といったレギュレーション変化への対応に追われることになる。

前述のとおりセナの事故の後は、アメリカのCARTシリーズに出場していたマンセルが、シリーズの合間を縫って参戦した。

マンセル起用は、セナというスター選手を失ったF1に話題性を、ということで、F1界のドンであるバーニー・エクレストンが仕掛けたものだと言われている。

最終戦のアデレードでは赤いカーナンバー2に乗ったマンセルが、F1で最後の勝利をあげたことも印象に残っている。

以上、1/43のウィリアムズFW16を実車のように撮影してみた。

今回登場したミニカー

今回撮影に登場したミニカーを紹介する。

【ixo製】ウィリアムズFW16

デアゴスティーニのF1マシンコレクション54号で、イタリアのixoが製造する。

【ixo製】ベネトンB194

デアゴスティーニのF1マシンコレクション4号で、ixoが製造したモデル。

【マテル製】フェラーリ412T1

マテル製で、2012年ごろ?に発売した通常ラインナップよりも上級のモデル。

最後に

先日フランク・ウィリアムズ率いるウィリアムズはアメリカの投資会社に売却をしたことを発表した。

大きくなりすぎたF1の世界で純粋なレーシングチームとしてこだわったウィリアムズがF1に残るのは厳しかったののだろうが、かつての大活躍を知るF1ブーム世代の私としては、非常に残念に思う。

1990年代はまさにウィリアムズがF1を席巻した時代だった。

ドライバーズコンストラクターズ
1990年6位4位
1991年2位2位
1992年1位1位
1993年1位1位
1994年2位1位
1995年2位2位
1996年1位1位
1997年1位1位
1998年5位3位
1999年6位5位

10年間でドライバーズタイトル4回、コンストラクターズタイトル5回と、現在のF1ファンからすると考えられないウィリアムズの全盛期であった。

その原動力を支えたのは、今もレッドブルのデザイナーとしてF1界に名を轟かす、デザイナーのエイドリアン・ニューウェイとルノーエンジンの力が大きかった。

しかし1996年末にニューウェイがウィリアムズを離脱し、1997年シーズンの終了後ルノーもF1を撤退すると成績は低迷。

ウィリアムズはBMWと提携するも、BMWの資本参加を拒み決別。

その後は低迷の一途をたどることになるのであった。

以上、今回は1/43のウィリアムズFW16を実車のように撮影し、実車の現役時代を振り返ってみました。

最後までご覧いただきありがとうございました。

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大福
モータースポーツをこよなく愛す、セナプロ世代の四十代。 サーキット観戦デビューは、1996年フォーミュラニッポン第7戦の富士スピードウェイ。ど迫力のエキゾーストノートとタイヤの焼ける匂いを実感し、それまでテレビでしか観戦してこなかった事を悔やむ。以降、F1・WEC・スーパーGT・スーパーフォーミュラなどを富士スピードウェイ・鈴鹿サーキットを中心に多数観戦する。