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1990年代にF1を撤退した24のコンストラクター

モータースポーツのトップカテゴリーであるF1は、過去に多くのコンストラクターが参戦しそして撤退してきました。

特に1990年代のF1は古き良きモーターレーシングから近代F1に変わる過渡期で、多くのコンストラクターがその変化に対応できずF1を去っていきました。中には400戦以上出走し多くのチャンピオンを獲得した名門も・・・。

そこで今回は1990年代にF1を撤退した24のコンストラクターについて、その略歴や撤退の理由などとともに紹介します。

それでは1990年から順にどうぞ!

今回は撤退したチームまたはエントラントではなく、あくまでもコンストラクターです。

F1を運営するFIAでは公式記録として公開した資料がないため、中にはその扱いが微妙なものもありますが、ご了承ください。

1990年を最後にF1を撤退したコンストラクター

DATA
  • オゼッラ(1980-1990)
  • ユーロブルン(1988-1990)
  • オニクス(1989-1990)
  • ライフ(1990)

1990年を最後にF1を撤退したコンストラクターはオゼッラ、ユーロブルン、オニクス、ライフの4つです。懐かしいチーム名が並びますね。

オゼッラ(1980-1990)

オゼッラは1980年から参戦したイタリアのコンストラクターでしたが、慢性的な資金難を抱えており、スポンサーだった大手ホイールメーカーのフォンドメタルに売却して1990年に撤退しました。11年もF1に参戦していたとは・・・知りませんでした。

ユーロブルン(1988-1990)

1988年から1990年まで参戦したユーロブルンですが、メインスポンサーが付かず資金が枯渇して遠征となる日本グランプリに行く資金が捻出できず、そのまま消滅となりました。個人的には1990年のシルバーのカラーリングが印象に残っています。

ちなみにユーロブルンの名称ですが、ユーロレーシングとブルンモータースポーツが共同で設立したため、それを合わせてユーロブルンになったそうです。

オニクス(1989-1990)

続いてはオニクス。国際F3000のトップチームから1989年にF1にステップアップしたオニクスは、同年にステファン・ヨハンソンが表彰台を含む2度の入賞(当時は6位までの狭き門でした)と初年度としては素晴らしい成績で翌年は予備予選を免除されます。

しかし翌1990年に入ると創設者やデザイナーが相次いでチームを離脱し、メインスポンサーのマネートロンが詐欺で告発されます。その後、新たなメインスポンサーを得るも第10戦のハンガリーグランプリを最後にF1から撤退しました。

あのブルー地に蛍光ピンク、蛍光グリーンのカラーリングは実に美しいマシンでした。

ライフ(1990)

1990年撤退組の最後はライフ。ある意味この年撤退したコンストラクターの中で最も有名かもしれませんね。

ライフはエンジンも自社で製造するフルコンストラクターとして参戦しましたが、そのエンジンが水平対向エンジンの真上に直列4気筒エンジンを追加したようなW型12気筒というとんでもない代物でした。しかしそのエンジンは400-450馬力程度だったらしくもちろん全戦で予備予選落ち(終盤はジャッドV8に換装)を喫し、資金難で日本グランプリに行けずにF1を撤退しました。

1991年を最後にF1を撤退したコンストラクター

DATA
  • AGS(1986-1991)
  • コローニ(1987-1991)
  • レイトンハウス(1990-1991)
  • モデナ(1991)

1991年を最後にF1を撤退したのは、AGS、コローニ、レイトンハウス、モデナの4つのコンストラクターです。

AGS(1986-1991)

AGS JH23(1988)
2018年F1日本GPにて

まずはAGSです。国際F3000のトップチームから1986年にF1にステップアップしたAGSでしたが、このチームも例に漏れず慢性的な資金難でした。その資金難の度合いは酷く、ドライバーの給料やホテル代の未払いなどがありました。

さらに1991年にはマネージャーの資金持ち逃げ事件もありメカニックに給料を支払えず、開幕戦に現れたメカニックはなんと9人で、ピットストップ作業も人数不足だったらしいです・・・。

結局この年の日本グランプリを前にチームは消滅となりました。

コローニ(1987-1991)

スバルコローニC3B(1990)

続いてはイタリアのコローニです。日本の富士重工(スバル)が一時期買収をしたことで、弱小チームながらも日本で有名なチームですね。

1980年代にイタリアF3の強豪チームだったコローニは1987年の地元イタリアグランプリでF1に初参戦。そして1988年からはフル参戦を1989年からは2カー体制になるも多くのグランプリで予選落ち(予備予選含む)をします。

トピックは1990年。前年末に富士重工(スバル)が1億円でチーム株式の半分を買い取りスバルコローニとして参戦。エンジンはスバルとモトーリモデルニが共同開発した水平対向12気筒を搭載しますが、時代遅れの水平対向(ライフ以外全車V型)では戦えるはずもなく、イギリスグランプリを以って提携終了となりました。

その後1991年までエントリーしますが全戦に渡り予備予選不通過の末、アンドレアモーダに売却し、コローニの名はグランプリから消えました。

レイトンハウス(1990-1991)

F1ブームを象徴するコンストラクターのひとつがレイトンハウスです。おそらくF1に興味のない40-50代の方でも当時必ず耳にしたことがある名前だと思います。

不動産会社丸晶興産のブランド名として誕生したレイトンハウス(後に法人化)は国内レースのスポンサーを務めた後、1987年にマーチのスポンサーとしてF1に進出します。

1989年にはマーチを買収してレイトンハウスレーシングになり、1990年にコンストラクター名称もレイトンハウスに変更。後に空力の鬼才として活躍することになるエイドリアン・ニューウェイが開発したCG901Bは路面がスムーズなサーキットで威力を発揮し、この年路面改修が施工されたポールリカールでのフランスグランプリでは残り3ラップまで首位を走り、2位入賞を果たしました(ニューウェイは直前に解雇)。

しかし1991年の日本に於けるバブル崩壊とともに資金繰りが悪化しチームオーナーの赤城明さんが逮捕されると、1991年シーズンを最後に赤城さんはチームのオーナー権を手放し、チームは元のマーチとして1992年シーズンを迎えました。

モデナ(1991)

1991年シーズン終了後に参戦1シーズンで撤退したのがイタリアのモデナです。

モデナの参戦は少々複雑。当初はメキシコ人の実業家がランボルギーニの全面協力を得てグラスとしてFIAにエントリーを済ませます。そしてマシンも完成したのですが・・・その実業家がなんとチーム資金を持ち逃げして失踪してしまいます。

残されたランボルギーニはエントリー後のレース欠場による多額の罰金を避けるため、イタリア人の実業家と新たに手を組み、変更後のチーム本拠地であるモデナをチーム名称にして参戦に漕ぎ着けました。ちなみに当時姫路セントラルパークの運営を行なっていた土井産業がメインスポンサーをしていました。

開幕戦では入賞まで後一歩の7位(当時の入賞は6位まで)に入りますが、その後は予選落ちや予備予選落ちが続き、この年限りでF1から撤退しました。

余談ですが2022年シーズンを戦ったメルセデスW13のサイドポッドの形状がモデナ291にそっくりだと評判になり、30年以上ぶりにこのチームが脚光を浴びました。

次のページでは、1992年以降にF1を撤退したコンストラクターを紹介します!

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大福
モータースポーツをこよなく愛す、セナプロ世代の四十代。 サーキット観戦デビューは、1996年フォーミュラニッポン第7戦の富士スピードウェイ。ど迫力のエキゾーストノートとタイヤの焼ける匂いを実感し、それまでテレビでしか観戦してこなかった事を悔やむ。以降、F1・WEC・スーパーGT・スーパーフォーミュラなどを富士スピードウェイ・鈴鹿サーキットを中心に多数観戦する。