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1990年代にF1を撤退した24のコンストラクター

1992年を最後にF1を撤退したコンストラクター

DATA
  • ブラバム(1962-1987,1989-1992)
  • マーチ(1970-1978,1981-1982,1987-1989,1992)
  • ダラーラ(1988-1992)
  • フォンドメタル(1991-1992)
  • ヴェンチュリー(1992)
  • アンドレアモーダ(1992)

1992年を最後にF1を撤退したコンストラクターは6つ!超名門のブラバムや古くから参戦したマーチもその中に含まれていますね。

では各コンストラクターを詳しく見ていきましょう。

ブラバム(1962-1987,1989-1992)

ブラバムBT49C(1981)
2017年鈴鹿サウンドオブエンジンにて

F1ドライバーのジャック・ブラバムがマネージャー兼デザイナーのロン・トーラナックとともに、1962年に設立したのがブラバムです。

1964年に初優勝をすると、1966年にオーナードライバーのジャック・ブラバムが4勝を挙げて自身3度目、チームとしては初のドライバーズチャンピオンを獲得。さらに翌年はデニス・ハルムがドライバーズチャンピオンになり(いずれの年もコンストラクターズタイトルを獲得)、第1期黄金期を迎えます。

1972年に後のFOCA会長バーニー・エクレストンがチームを買収し新体制になります。

第2期黄金期は1980年代。1979年途中に加入した若きネルソン・ピケが才能を開花し、1980年にドライバーズ選手権で2位に躍進すると、翌1981年にドライバーズタイトルを獲得。さらに1983年もピケがチャンピオンに輝きます。

しかしオーナーのエクレストンがFOCAの会長職に専念(1988年にチームの株を売却)し、長年マシンを設計してきたゴードン・マレーが離脱するとチームは低迷。1988年は資金難で1年間参戦を見合わせます。

1989年に復帰するとモナコグランプリで3位に入るなどの活躍もありましたが、かつての輝きとは程遠く、さらに新チームオーナーが120億円を横領して、チームの財政事情がさらに悪化。存続の危機を迎えます。

この事態を救ったのが日本人。1990年シーズン直前に実業家の中内康児さんが率いるミッドランドグループがチームを買収して、この年も何とか参戦資金を捻出できました。この関係で伊太利屋、カルビー、オートバックス、住友海上火災、三越、マドラス、山善など多くの日本のスポンサーが名を連ねていましたね。

しかし日本のバブル崩壊で日本企業が一気に無くなり、1992年を最後に名門はF1から去りました。

マーチ(1970-1978,1981-1982,1987-1989,1992)

マーチ721G(1972)
2018年鈴鹿サウンドオブエンジンにて

インディカーやプロトタイプカーなど、多くのカテゴリーにレーシングマシンを供給していたマーチもかつてF1に参戦していました。ただマーチは自チームとしての参戦だけでなく、マシンを製造して様々なチームに供給するコンストラクターとして参戦していた時期も多くありました。

F1に初めて参戦したのは1970年で、参戦2戦目にして初優勝を飾ります。この年は自チームとして参戦する傍ら前年のチャンピオンであるティレルにもマシンを供給しました。

その後1975年に2勝目を1976年には3勝目を挙げますが、1977年を最後にチームはATSに売却され、1978年のプライベーターのエントリーを最後にF1を休止します。

マーチ821(1982)
2018年鈴鹿サウンドオブエンジンにて

1981年にRAMのF1参戦のためマシンを設計しコンストラクターとして復帰し1982年まで参戦。

1987年には日本のレイトンハウスのサポートを受け自チームでF1に復帰し、若きエイドリアン・ニューウェイの設計したマシンはピーキーながらも時に好走を見せます。1988年の日本グランプリでは最強ホンダターボを搭載するマクラーレンMP4/4の圧倒的有利の中NAマシンながらも一瞬ではありますがトップを走行しました。

しかしチームはレイトンハウスに買収され、チーム名は1990年からレイトンハウスに、そして1991年にはコンストラクター名からもマーチの名が消えます。

その後日本のバブル崩壊とオーナー赤城明さんの逮捕によりレイトンハウスオーナーが撤退。1992年にマーチの名前に戻るも資金難でこの年を最後にチームは消滅しました。

ダラーラ(1988-1992)

現在FIA-F2、FIA-F3、インディカーシリーズ、スーパーフォーミュラ、フォーミュラEなど、F1以外の主要カテゴリーにマシンを供給するダラーラ。そんなダラーラもコンストラクターとしてF1に参戦していた時期がありました。

ダラーラが初めてF1マシンを製造したのは1988年。ただし自チームとして参戦するのではなくスクーデリアイタリアにマシンを供給するコンストラクターとしての参戦でした。ちなみに開幕戦にマシンが間に合わなく、初戦のみF3000マシンで参戦しました。

その後もスクーデリアイタリアにマシン供給を続け、最高位は1989年カナダグランプリと1991年サンマリノグランプリの3位。しかしマシンの戦闘力不足により1992年を最後にスクーデリアイタリアは翌1993年にマシンの供給先をローラに変更。そのためダラーラのコンストラクターとしてのF1参戦は1992年を最後に終了しました。

ただその後も1999年のホンダテスト用シャシー製作や、2000年代のMF1との共同開発、2010年代のHRTやハースへのシャシー製作(設計はHRT・ハースが行なっているためダラーラがコンストラクターにはならない)など、F1には関わり続けています。

フォンドメタル(1991-1992)

イタリアの自動車部品メーカーのフォンドメタルは1988年にオゼッラのスポンサーになり、1990年末にオゼッラを買収し1991年からF1に参戦します。

オゼッラ時代から1カー体制で参戦していたものの1992年からレギュレーションにより2台のマシンをエントリーします。しかし運営資金に行き詰まり、同年のイタリアグランプリを最後に撤退しました。

ちなみにチームオーナーのガブリエル・ルミは翌年に風洞施設を買収しティレルやベネトンの空力に深く関与。また1997年にはミナルディ買収グループの一員として名を連ねるなど、その後もF1と関わり続けました。

ヴェンチュリー(1992)

ベンチュリーLC92(1992)
2016年鈴鹿サウンドオブエンジンにて

ラルースチームが1991年末に倒産。その後フランスの国内法の適用を受け事業再生支援を行なったのがフランスの高級車メーカーヴェンチュリーでした。

元々ラルースはローラからマシンの提供を受けていましたが、ヴィンチュリーはシャシー製造会社のフォメットを買収したため、コンストラクター名もヴェンチュリーに変更。

この年は前年の全日本F3000チャンピオンの片山右京さんが所属しますが、マシンの戦闘力は低く、入賞はガショーの1度のみに終わります。

シーズン半ばでヴェンチュリーは資本を引き揚げたため、この年限りでコンストラクター名をラルースに改称しました。

アンドレアモーダ(1992)

1991年に撤退したコローニを買収したイタリアでディスコやブーツメーカーを営むアンドレア・サセッティのチームがアンドレアモーダです。このチーム、かなりブラックな印象でした。

FISAに補償金の10万ドルを収めていないとして開幕戦と第2戦の出走を禁止されます。第3戦から出走を許されるも、予備予選を通過できないレースが続きました。

そういえばこのチーム、2台体制でありながらエースのロベルト・モレノに全勢力を注ぎ込んでいて、セカンドドライバーのペリー・マッカーシーのマシンには予備予選終了間際の1周のみしか出走をさせず、FISAから注意されていたことを思い出します。

結局チームオーナーがベルギーグランプリ開催中に会場で逮捕されたことで、FISAが追放処分にしたためチームは消滅しました。

マシンもブラック一色でしたが、チーム運営もブラックを地で行くチームでした。

1994年を最後にF1を撤退したコンストラクター

DATA
  • ロータス(ノーフォーク)(1958-1994)
  • ラルース(1993-1994)

1993年に撤退したコンストラクターはありませんでしたが、1994年は超名門コンストラクターであるロータスが去った年でした。また日本人を3人も起用したフランスのラルースもこの年限りで撤退をしました。

ではこの2つのコンストラクターについて詳しく見ていきましょう。

ロータス(ノーフォーク)(1958-1994)

ロータス91(1982)
2018年鈴鹿サウンドオブエンジンにて

1994年を最後にロータスが撤退しました。コーリン・チャップマンが興したロータスはF1コンストラクターの多くが本拠を置くイギリスの中でももっとも歴史のある名門だけに、この撤退は大きな話題を呼びました。

2010年代にロータスの名を冠した別チームが2つも現れたことからも、F1に於いてこの名称が特別なものだということがわかりますね。

ではロータスの歴史を簡単に振り返ってみましょう。

コーリン・チャップマンのロータスは1958年からF1参戦を開始します。コンストラクターとしての初優勝は1960年(ロブウォーカーレーシングチーム)、ワークスチームとしては1961年に初優勝を果たします。

1963年にはジム・クラークが10戦7勝の圧倒的な強さで初のドライバーズチャンピオンを獲得。同時にコンストラクターズタイトルも初めて獲得しました。1965年にも2度目のW王者に輝きました。

1967年にはフォードの支援の下に開発したコスワースDFVエンジンを名車ロータス49に初搭載し、このマシンで1968年にWチャンピオンになります。ロータスがF1に与えた功績は数多くありますが、そのひとつがコスワースDFVエンジンをF1にもたらしたことでしょう。また1968年にF1で初めてスポンサーカラー(ゴールドリーフ)を纏ったマシンで登場しましたが、これもF1発展に大きく寄与しました。

ロータス72C(1970)
2017年鈴鹿サウンドオブエンジンにて

1970年にはロータス72がデビューし、2度のドライバーズタイトルと3度のコンストラクターズタイトルを獲得。このマシンは現在にも通じるサイドラジエターを採用したマシンで、航空力学を取り入れたF1のスタイリングを大変革させたマシンでした。

1977年に登場したロータス78はグランドエフェクト効果をF1に初めて取り入れた、F1の歴史の中でももっとも革新的なマシンでした。マシン下面で強烈なダウンフォースを稼ぐロータス78はグランプリを席巻し、1978年のWタイトルを獲得。その後各チームもそれに追随し、今ではF1マシンの空力に於いてもっとも重要なものとなりました。

そんなF1に何度も革新的な技術をもたらしたチャップマンのロータスでしたが、1982年シーズン終了後にそのチャップマンが急死するとチームは徐々に衰退。若き天才アイルトン・セナの加入や最強ホンダエンジン獲得もありましたが、チャップマンがいないロータスのマシンは技術の進化が一気に鈍化します。

ロータス100T(1988)
2018年F1日本GPにて

セナやホンダエンジンも離れ、1990年代に入ると資金難に陥りF1の進化について行けず、1994年、ロータスにとって初の年間ノーポイントに終わります。

ロータスはこの年の終盤、裁判所に破産申請を提出し、シーズン終了後に会社更生法を適用。新たな出資者へアプローチをするもスタッフの流出が加速し、1995年1月に全社員に解雇が通告され1995年の参戦を断念しました。

ラルース(1993-1994)

日本人に馴染み深いフランスのラルースも1994年を最後にF1を撤退したコンストラクターでした。

ラルースは1987年からF1に参戦。当初はローラ製のシャシーを使用していたためコンストラクター名義はローラでした。ちなみに1990年にそのコンストラクター名義を誤ってラルースとしてエントリーしたことでポイントを剥奪されています。

1991年末にチームは倒産。フランスのヴェンチュリーが受け皿となりましたが、その後ヴェンチュリーが撤退したことで1993年からチーム名をラルースに戻します。ヴェンチュリーはシャシー製造のフォメットを買収していたため、それを受け継ぎ、この年からコンストラクター名が初めてラルースになります。

しかし1994年にまたも資金不足に陥り、1995年の大幅なレギュレーション変更に対応できず、この年を最後に撤退をしました。

次のページでは、1995年以降にF1を撤退したコンストラクターを紹介します!

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大福
モータースポーツをこよなく愛す、セナプロ世代の四十代。 サーキット観戦デビューは、1996年フォーミュラニッポン第7戦の富士スピードウェイ。ど迫力のエキゾーストノートとタイヤの焼ける匂いを実感し、それまでテレビでしか観戦してこなかった事を悔やむ。以降、F1・WEC・スーパーGT・スーパーフォーミュラなどを富士スピードウェイ・鈴鹿サーキットを中心に多数観戦する。