人気記事:『ミニカーで振り返るF1マシン』シリーズ

1990年代にF1を撤退した24のコンストラクター

1995年を最後にF1を撤退したコンストラクター

DATA
  • シムテック(1994-1995)
  • パシフィック(1994-1995)

1995年はシムテックとパシフィックが撤退しています。

シムテック(1994-1995)

シムテックは1994年シーズンより加入したチームで、オーナー兼代表は後にベネトンやヴァージンでテクニカルディレクターを務めることになるニック・ワース。名称はシミュレーションテクノロジーの略称です。

しかし参戦3戦目でローランド・ラッツェンバーガーが事故で帰らぬ人になります。さらにラッツェンバーガーの代役として参戦したアンドレア・モンテルニーニも初戦で両足を複雑骨折する大事故に遭い、アクシデントが続きました。

その影響もありシーズン後半になると資金不足が露呈します。

1995年シーズンも参戦しますが、第5戦モナコグランプリ終了後に資金が枯渇し翌カナダグランプリを欠場。そのままチームは解散しました。

パシフィック(1994-1995)

パシフィックは国際F3000に強豪チームとして参戦していたチーム。当初は1993年から参戦を予定していましたが、資金難のため1年延期をして1994年に参戦に漕ぎ着けました。

初年度は当初レイナードがF1参戦を見据えて1991年に製造したマシンを譲り受け、それを改良をして参戦。しかし3年前のマシンでは当然苦戦し予選落ちが相次ぎました。

1995年は前年に破産したロータスの名称権を買取り、パシフィックロータスとしてエントリー。名称どおりアジアスポンサーの獲得に動き、日本の東急グループも資本参加。さらに所属ドライバーのベルトラン・ガショーも自己資金を投じて共同オーナーになるも、資金難は続きました。

結局シーズン終了まで参戦はしましたがこの年いっぱいで撤退。その後は国際F3000に戻りました。

1996年を最後にF1を撤退したコンストラクター

DATA
  • リジェ(1976-1996)
  • フットワーク(1992-1996)
  • フォルティ(1995-1996)

1996年はリジェ、フットワーク、フォルティの3つのコンストラクターが撤退しました。

リジェ(1976-1996)

リジェJS11(1979)

リジェはフランスを代表するコンストラクターでした。

フランス代表のラガーマンだったギ・リジェがオーナー兼監督を務めるリジェは、1973年から1975年のル・マン24時間に出場。その実績を提げ1976年からF1に参戦を開始します。

初優勝は1977年のスウェーデングランプリ。参戦初年度から所属するジャック・ラフィットのドライブによるものでした。

参戦当初からフランスのマトラエンジンを使用していましたが、1979年から多数派のコスワースDFVにスイッチすると成績が向上し、3勝を挙げてコンストラクターズランキング3位に躍進。さらに1980年は2勝ながらもランキング2位に上がります。

しかしフランス企業にこだわるリジェは翌年からまたもマトラエンジンに戻すと、徐々に成績が低迷。1984年からはルノーターボを獲得するも成績は低迷したまま。結局1982年以降、1度も優勝を遂げることなく中堅チームとして参戦を続けます。

リジェJS43(1996)

そんなリジェが1981年以来15年ぶりに優勝の栄冠を手にしたのが、ウエットで大混乱となった1996年のモナコグランプリでした。このレースはオリビエ・パニスと無限エンジンにとっては初優勝、そしてリジェにとっては最後の勝利になりました。

結局翌1997年のシーズン前にアラン・プロストが新オーナーになり、チームはプロストグランプリとして新たなシーズンを送ることが正式に決定。リジェとしてのF1参戦は1996年で終了しました。

ドライバーはジャック・ラフィット、ルネ・アルヌー、エリック・コマス、オリビエ・パニスなどフランス人にこだわり、エンジンはマトラやルノー、燃料はエルフやアンター、メインスポンサーはジタン、ロトと、とにかくフランス企業にこだわった特徴的なチームでした。

フットワーク(1992-1996)

フットワークFA13(1992)

日本にかつて存在した運送会社のフットワークもバブル時代F1に参戦しました。

1980年代に中堅チームとして活躍したアロウズ。フットワークはこのチームのメインスポンサーとして1990年から参画し買収します。そして1991年にチーム名を、1992年からはコンストラクー名もフットワークに改称します。

1991年には潤沢な資金のもと、1年あたり約45億円の4年契約でポルシェエンジンを獲得。しかしこのエンジンが期待を大きく下回る欠陥品で契約を破棄。翌1992年からはホンダを引き継いだ無限エンジンと契約することになります。

1993年にはマクラーレンからアクティブサスペンションなどのハイテク装備を購入(マクラーレンのものとは仕様が異なる)し予選での戦闘力が大幅にアップしますが、レースではギアボックスにトラブルが多発しリタイヤを量産したため結果には結びつかないシーズンでした。

しかし日本のバブル崩壊で親会社の業績が悪化しフットワークはチームを手放します。チームはふたたびアロウズになるも、コンストラクター名は1996年までフットワークの名で参戦しました。

ちなみにフットワークは現在、アート引越センターの傘下アートプラスの名称で存続しているようです。

フォルティ(1995-1996)

フォルティはイタリアF3で4度チャンピオンになり、国際F3000にも参戦したチームで、同チームに在籍していた大富豪の御曹司、ペドロ・ディニスとともに1995年からF1に参戦しました。

無名のジョルジオ・スティラーノなる人物が設計したマシンは、セミオートマ全盛の時代に時代遅れのHパターンマニュアルシフトを搭載し、パワステすらも装着されていませんでした。さらにマシンは規定よりも80kg重いため当然戦闘力はなく、信頼性も低いとんでもない代物でした。

そのマシンをブラバムやダラーラで活躍したセルジオ・リンランドが大幅に改良するも、元々の素性が悪いため、毎レース最後尾が定位置でした。

翌1996年は大富豪のディニスが他チームに移籍し台所事情が悪化。マシンの改良もままならず、この年から施行された予選の107%ルールに阻まれ、予選落ちする場面が多くみられました。

その後エンジン代金が払えなくなり第10戦終了後にエンジン供給がストップして撤退しました。

1997年を最後にF1を撤退したコンストラクター

DATA
  • ローラ(1962-1963,1967-1968,1974-1975,1985-1991,1993,1997)

1997年を最後にF1を撤退したコンストラクターはローラでした。

ローラ(1962-1963,1967-1968,1974-1975,1985-1991,1993,1997)

イギリスのローラは現在のダラーラのような各カテゴリーにマシンを供給するコンストラクターで、F1も各チームから製作依頼を受けてマシンを供給していました。

最初の依頼は1962年のヨーマンレーシング。世界GPのチャンピオンで後にF1でもチャンピオンになるジョン・サーティースのドライブで、開幕戦にてポールポジションを獲得しました。

1967年にはホンダの依頼を受けRA300とRA301を共同開発(コンストラクターとしてはホンダ)をし、通称ホンドーラと呼ばれました。

1974年から2年間はヒル(グラハム・ヒルのチーム)の依頼で製作。1985年から1991年までは前述したラルースチームのコンストラクターとしてマシンを製作し、1993年にはスクーデリアイタリアの依頼でマシン製作を請け負いました。

自チームとしての参戦は1997年が唯一です。

メインスポンサーに世界的に有名なマスターカードが付きカード会員から協賛金を集めるという変わった計画をしていましたが、戦闘力の低いマシンに愛想を尽かされたのか第2戦を前に突如マスターカードからのスポンサーシップ終了が告げられます。

するとエンジン代金の支払いが滞り参戦不能になり、そのまま撤退をしました。

1998年を最後にF1を撤退したコンストラクター

DATA
  • ティレル(1970-1998)

1998年を最後にF1を撤退したコンストラクターはティレルの1社でした。

ティレル(1970-1998)

ティレルP34(1977)
2019年鈴鹿サウンドオブエンジンにて

中嶋悟さん、片山右京さん、高木虎之介さんと日本人ドライバーが3人も所属し、ホンダやヤマハのエンジンも搭載した、日本ともゆかりの深いティレルは1998年を最後にF1から撤退をしました。

6輪車やハイノーズ、Xウイングなど、エポックメイキングな変わり種マシンも数多く生み出したティレルを振り返ってみましょう。

1968年からマトラのセミワークスチームの監督としてF1に携わったケン・ティレルは、1970年にマーチのマシンを使用して自チームでのF1にデビュー。その年の後半にはオリジナルマシンを登場させて、コンストラクターの仲間入りを果たします。

そして1971年にはスポーツカーノーズを採用した003が威力を発揮し、オリジナルマシンによるフル参戦初年度にしてWチャンピオンを獲得。さらに1973年もジャッキー・スチュワートがドライバーズ選手権を制覇します。

1976年にはF1初にして唯一の6輪車P34を投入。成績的には大成功とはなりませんでしたが、日本をはじめ世界的でも多くの注目を浴びました。

1980年代に入るとF1はターボが全盛になりますが、ティレルは移行に乗り遅れ苦戦を強いられることになり、さらに1984年の水タンク事件が勃発して成績はさらに低迷します。

ティレル019(1990)
2019年鈴鹿サウンドオブエンジンにて

そんなティレルがふたたび注目されるのが1990年。第4戦のモナコグランプリで投入された019はハイノーズやアンヘドラルウイングが採用され、その後のF1マシンのハイノーズ化に大きく寄与しました。

翌1991年は昨年のチャンピオンエンジンであるホンダV10を搭載しましたが、大きく重いエンジンでマシンバランスが狂い低迷。1994年はヤマハエンジンを搭載した023がたびたび好走をするも信頼性不足が露呈します。

ティレルは慢性的な資金不足を抱えていましたが、その後はさらに深刻化し、1998年シーズン前にブリティッシュアメリカンタバコ(BAT→BAR)に買収されました。

1999年を最後にF1を撤退したコンストラクター

DATA
  • スチュワート(1997-1999)

1999年を最後に撤退したコンストラクターはスチュワートでした。

スチュワート(1997-1999)

スチュワートSF3(1999)

スチュワートは3度のF1王者、ジャッキー・スチュワートの息子であるポール・スチュワートが創設した国際F3000チームのポールスチュワートレーシングが前身。

父のジャッキー・スチュワートは3度ともフォードDFVを使用してチャンピオンを獲得しており、引退後のフォードのコンサルタントを勤めていました。その関係でフォードの全面的なバックアップでF1に参戦することが決定しました。

参戦初年度はモナコグランプリでエースのルーベンス・バリチェロが2位に入る健闘を見せた以外はすべて入賞圏外。信頼性は著しく悪く2台合わせて25回ものリタイヤを喫しました。

チームとしてもっとも輝いたのが参戦3年目。マシンデザイナーを変更し(基本設計は前任者)、軽量パワフルな新設計エンジンがフォードから供給されたこともあり、パフォーマンスは一気に向上。

第14戦のオーストリアグランプリでは参戦3年目にして初の優勝を達成します。結局このシーズンは4度の表彰台を含む10回の入賞を記録(当時は6位までが入賞)し、コンストラクターズランキングを4位まで上昇させました。

だがこのシーズンの途中でフォードがチームを買収し、翌年から傘下のブランドだったジャガーの名を冠したチームでエントリー。スチュワートは3年という短い期間でF1活動を終了しました。

まとめ

今回は1990年代にF1を撤退したコンストラクターをすべて挙げてみましたが、まとめると以下の24のコンストラクターです。

No.コンストラクター名初参戦最終年
1オゼッラ19801990
2ユーロブルン19881990
3オニクス19891990
4ライフ19901990
5AGS19861991
6コローニ19871991
7レイトンハウス19901991
8モデナ19911991
9ブラバム19621992
10マーチ19701992
11ダラーラ19881992
12フォンドメタル19911992
13ヴェンチュリー19921992
14アンドレアモーダ19921992
15ロータス(ノーフォーク)19581994
16ラルース19931994
17シムテック19941995
18パシフィック19941995
19リジェ19761996
20フットワーク19921996
21フォルティ19951996
22ローラ19621997
23ティレル19701998
24スチュワート19971999

F1ブーム世代の私としては、とても懐かしい名前が並んでいてちょっとホッコリします。またロータスやブラバム、ティレルなど、超名門と要バレたチームがF1から去ったのもこの頃でした。

1990年代はモーターレーシングが大好きな連中が情熱だけで経営していたコンストラクターが淘汰され、特定の分野に特化した専門家が集まり、分業制でチームを運営するように変化した過渡期です。そのように変化しきれなかったチームが脱落していった時代でした。

2000年代、2010年代にF1を撤退したコンストラクターについては下記の記事で書いていますので、興味のある方はどうぞ。

以上、最後までご覧いただきありがとうございました。

面倒ですがポチッとお願いします

自動車レースランキング

関連記事

ブログをメールで購読

メールアドレスを記入して購読すれば、更新をメールで受信できます。

145人の購読者に加わりましょう
よかったらSNSでシェアお願いします!



サーキットでの興奮をあなたに伝えたい
MOTORSPORT観戦記

サーキットは非日常を味わえる特別な空間です。そんな素晴らしいモータースポーツの世界を、ひとりでも多くの方に伝えたい・・・。そんな思いでMOTORSPORT観戦記と題し、記事に認めました。




コメントを残す

ABOUT US
大福
モータースポーツをこよなく愛す、セナプロ世代の四十代。 サーキット観戦デビューは、1996年フォーミュラニッポン第7戦の富士スピードウェイ。ど迫力のエキゾーストノートとタイヤの焼ける匂いを実感し、それまでテレビでしか観戦してこなかった事を悔やむ。以降、F1・WEC・スーパーGT・スーパーフォーミュラなどを富士スピードウェイ・鈴鹿サーキットを中心に多数観戦する。