2000年代のF1は5つもの自動車メーカーが参戦を開始し消えていった時代でした。また日本国籍の3つのコンストラクターも参戦しましたが、夢絶たれて消えた時代でもありました。
そこで今回は2000年代にF1を撤退したすべてのコンストラクターを、足跡とともに年代順に紹介します。
2001年を最後にF1を撤退したコンストラクター
- ベネトン(1986-2001)
- プロスト(1997-2001)
2001年を最後にF1を撤退したのはベネトンとプロストの2つのコンストラクターです。それでは詳しく見ていきましょう。
ベネトン(1986-2001)
1980年代後半に突如として競合チームの一角になり1990年代はドライバーズタイトルを2度、コンストラクターズタイトルを1度獲得したベネトンは、2001年を以てグランプリから去りました。
イタリアのファッションブランドのベネトンは1980年代ティレルやアルファロメオのメインスポンサーとしてF1と関わりを持ちます。そして1986年からトールマンを買収してコンストラクターとしてF1に参戦します。
参戦初年度からマシンの競争力があり、この年のメキシコグランプリで初優勝。その後も着実にチーム力を上げ、1989年からは4強の一角として毎年勝利を記録。
レギュレーションにより電子デバイスが一掃された1994年。開幕7戦で6勝を上げる圧倒的な強さを発揮します。シーズン後半以降は強すぎるベネトンと所属するミハエル・シューマッハに対し、様々な足枷を受けるも、結果チームとして、そしてシューマッハとしても初のドライバーズチャンピオンを獲得します。
1995年は当時最強を誇っていたルノーエンジンを獲得し、圧倒的な強さで2度目のドライバーズタイトルと初のコンストラクターズタイトルを決めました。
しかしチャンピオンを獲得したシューマッハがフェラーリに移籍すると、1996年のシーズンオフにはチーフデザイナーのロリー・バーンとテクニカルディレクターのロス・ブラウンがシューマッハを追ってフェラーリに移籍し、チームは一気に弱体化するのでした。
その後2000年3月にルノーがベネトンを買収することを発表。ルノー資本後も2001年までコンストラクター名をベネトンとしていましたが、2002年からルノーとして参戦。16年にわたるベネトンのF1での歴史は幕を閉じました。
このコンストラクターの使命はベネトンというブランドをさらに世界に広げること。1990年代の主役として戦ったことで、その使命は十分に達成できたでしょう。
プロスト(1997-2001)
4度のF1チャンピオン、アラン・プロストが創設したプロストも、2001年限りでF1を去ったコンストラクターでした。
プロストは1996年にプジョーと提携してリジェ買収に乗り出し、1997年2月に正式発表します。ただ開幕が発表から2週間後だったため初年度はリジェの体制をほぼ踏襲して1997年シリーズに参戦。
1997年シーズンはこの年からF1に進出したブリヂストンタイヤが威力を発揮し、前半戦で2度の表彰台に立つも、中盤のカナダグランプリでエースオリビエ・パニス選手が両足を骨折。前半戦で稼いだポイントでコンストラクターズランキング6位に入りました。
1998年は待望のプジョーエンジンを獲得してドライバーも含めオールフレンチとして参戦しますが、マシンの出来が悪く、前年アドバンテージを誇っていたブリヂストンタイヤに他チームも履き替えたこともあり、入賞わずか1ポイントと失望のシーズンでした。
その後のシーズンも下位を走る常連になり、2000年にはシリーズ11位まで低迷。2001年は再起を図りプジョーエンジンを諦めフェラーリエンジンに変更。さらにタイヤもミシュランに変更をするも好転せず。さらにこの頃から資金繰りが悪化。結局プロストは自己破産を申請。裁判所は債権不能と判断して2002年1月にチーム消滅が決定しました。
2002年を最後にF1を撤退したコンストラクター
- アロウズ(1978-1991,1997-2002)
2002年を最後にF1を撤退したコンストラクターはアロウズです。それでは詳しく見ていきましょう。
アロウズ(1978-1991,1997-2002)
長い歴史を誇るアロウズは2002年を最後にF1を撤退しました。
アロウズのF1参戦は古く、当時F1に参戦していたシャドウの主要スタッフが独立して1978年からF1にエントリーを開始します。
初年度のスウェーデングランプリで2位表彰台を獲得、さらに1980年アメリカ西グランプリではポールポジションを獲得して決勝でも2位に入るなど、参戦当初は中堅チームとして活躍します。
その後1980年代も安定して中団チームとしての地位を確立。1988年にはベネトンの燃料規定違反もあり、コンストラクターズ4位に躍進しました。
1990年代に入ると日本の運送会社フットワークがメインスポンサーになり、やがて買収。コンストラクターとしてのアロウズは1991年終了後にグランプリから消えました。
1994年に日本のバブル崩壊でフットワークが手を引くと、チームはアロウズ時代の経営者のもとに戻ります。当初コンストラクターはフットワークのままでしたが、1996年にトム・ウォーキンショーが買収すると1997年からコンストラクター名もアロウズに変更します。
この1997年シーズンはマクラーレンやフェラーリで一世を風靡したジョン・バーナード(マシン改良のみ)と前年のチャンピオン、デーモン・ヒルの加入で、ハンガリーグランプリでは終盤までトップを快走して2位に入ります。
しかしハイライトはこれだけ。翌年バーナードが設計したマシンは不発に終わり、1999年に加入した高木虎之介選手が加入した頃には下位チームの常連になっていました。
そして2002年、資金繰りが悪化したアロウズは第12戦のドイツグランプリ終了後に休止を発表しましたが、その後グランプリに戻ることなく撤退するのでした。
余談ですがアロウズ最後のマシンA23のモノコックはその後スーパーアグリのデビューマシンSA05に流用。さらにアロウズのミルトンキーンズの工場もスーパーアグリの本拠地として使用され、アロウズのスタッフの多くも加入するのでした。
スーパーアグリはホンダのセカンドチームと思われていましたが、実はアロウズの生まれ変わりなのです・・・。
2004年を最後にF1を撤退したコンストラクター
- ジャガー(2000-2004)
2003年を最後に撤退したコンストラクターはなく、翌2004年はジャガーがこの年を最後に撤退をしました。
ジャガー(2000-2004)
グリーンメタリックにエンジンカバーに大きく描かれたブランドロゴが特徴だったジャガーは、2004年を最後に撤退したコンストラクターです。
ジャガーの前身は前回1990年代に撤退したコンストラクターの中で紹介した登場したスチュワートです。そのスチュワートをフォードが買収して、当時フォードが傘下に収めていたイギリスのジャガーブランドで2000年からグランプリに参戦します。
前年までフェラーリドライバーとしてシリーズチャンピオンを争ったエディ・アーバイン選手をエースに据え参戦するも、スチュワート時代の前年(1勝を含むシリーズ4位)から大きく下回るコンストラクターズランキング9位で初年度を終えます。
2001年はモナコグランプリで表彰台を獲得するもハイライトはそれだけ。この年もランキング8位と低迷。
その後も2002年から2004年までいずれもランキング7位とワークスチームらしからぬ不甲斐ない成績が続き、2004年11月にF1撤退を発表。チームを所有するフォードはわずか1ドルでレッドブルに売却されました。
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