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【9社が参入】F1タイヤ戦争の歴史(1950-2025)

【1990年代】グッドイヤー独占からブリヂストンへ

1998年にブリヂストンと契約して王者となったマクラーレンMP4-13
2018年日本GPにて

ピレリ復帰後も、タイヤの性能差やチームの実力差でグッドイヤーの圧勝は続き、1991年を最後にピレリは撤退して、ふたたびグッドイヤーの独占状態になります。

グッドイヤーの独占供給は長く続きますが、1997年より日本のブリヂストンがF1に参入し、1991年以来、久々のタイヤ戦争が始まります。

当初ブリヂストンは中下位チームへの契約でしたが、安定した性能でプロストグランプリをはじめとした中断チームが、グッドイヤーを履く上位チームを脅かすパフォーマンスを披露します。

そして溝付きのグルーブドタイヤになった1998年より、トップチームの一角であるマクラーレンがブリヂストンと契約し、両メーカーの熾烈な開発競争の末、参戦2年目のブリヂストンが勝ち星でグッドイヤーを抜き、初の年間王者に輝きます。

すると、グッドイヤーはこの年を最後にF1を撤退。グッドイヤーとブリヂストンのタイヤ戦争は、2年間という短い期間で終焉を迎えることになりました。

1965年ホンダでの1勝目から、グッドイヤーの積み上げた勝利は368回。最後の勝利は、第14戦イタリアグランプリでのミハエル・シューマッハ(フェラーリ)によるものでした。

タイヤメーカー別優勝回数(1990-1999)

PGB
1990016
1991115
199216
199316
199416
199517
199616
1997170
199879
199916
合計113625
P=ピレリ・G=グッドイヤー・B=ブリヂストン

【2000年代】ブリヂストンvs.ミシュランの熾烈なタイヤ戦争

1999年から2000年まではブリヂストンの独占供給でしたが、2001年にミシュランが1984年以来の復帰を果たします。

ミシュランは当時のトップチームの一角だったウィリアムズと契約(その他ベネトン・ジャガー・プロスト)し、本気でブリヂストンに対抗するも、時代はフェラーリ(ブリヂストン)の黄金時代で苦戦を強いられます。

それでもミシュランは徐々に供給チームを増やし、2002年にはウィリアムズとルノー(この年ベネトンから改名)、ジャガーに加えて、マクラーレンとミナルディ、そしてトヨタにも供給を開始。2005年にはフェラーリを除くトップチームはすべてミシュランタイヤになりました。

その2005年は予選、決勝レースを1セットのタイヤで走り抜くという変則レギュレーションになり、多くのデータが必要とされましたが、前述したとおりブリヂストンの上位チームへの供給がフェラーリだけということでデータが少なく、その結果ミシュランが19戦18勝と大勝しました。

しかしミシュランは、このシーズンの大勝利を喜ぶことができませんでした。

ミシュランが唯一勝利を上げられなかったのが、インディアナポリスでのアメリカグランプリだったのですが、このレースではミシュランタイヤの構造上の問題により、フリー走行からバーストが頻発し、決勝ではミシュランを履く7チーム14台がすべてフォーメーションラップ後にピットインしてレースを放棄してしまったのです。

ブリヂストンユーザーの3チーム6台によるレースにアメリカの観客は激怒し、レースに参加できないタイヤを製造したミシュランは大きなブーイングを浴びせられることになります。

その結果、ミシュランはこのレースのチケットを購入したファンに対して補填すると発表。また翌2006年アメリカグランプリのチケットを2万枚購入し、2005年のチケット購入者に配布しました。

それがミシュランのブランディング戦略に対して大きなダメージとなり、シーズン終了後にミシュランはチームとの契約が終了する2006年末でのF1からの撤退を発表しました。

そのブリヂストンvs.ミシュラン最後のシーズンは、タイヤ交換がふたたび許可され、両メーカーが9勝と分け合いましたが、ミシュランを履くルノーがチャンピオンを獲得しています。

2007年以降はブリヂストンのワンメイクとなり、その後F1はタイヤメーカーを1社のみとレギュレーションで定め、タイヤ戦争は終焉するのでした。

1998年から続いた溝付きのグルーブドタイヤでしたが、2009年からスリックタイヤに変更となっています。

タイヤメーカー別優勝回数(2000-2009)

BM
200017
2001134
2002152
200397
2004153
2005118
200699
200717
200818
200917
合計13143
B=ブリヂストン・M=ミシュラン

【2010年代以降】ピレリのワンメイクへ

2011年以降はピレリの独占供給時代
2019年日本GPにて

ブリヂストンは2010年を最後にF1撤退。

その後継サプライヤーとして、韓国のクムホやハンコック、ネクセンや、かつてF1に供給したピレリなどの名が挙げられ、ミシュランも復帰を考えていると噂されました。

そしてFIAは2010年6月に、ピレリが2011年からF1のタイヤサプライヤーになることを発表。ピレリは1991年に撤退して以来、20年ぶりにF1復帰しました。

以来、2025年現在もF1タイヤサプライヤーとしてピレリが供給を続けています。

タイヤメーカー別優勝回数(2010-2025Rd.12)

PB
201019
2011-2025Rd.12262
合計29819
P=ピレリ・B=ブリヂストン

まとめ

今回は、F1がはじまった1950年から現在に至るまでに参戦したタイヤメーカー9社の参戦時期と、タイヤ戦争について書いてみました。

市販タイヤと変わらなかった溝付きの細いタイヤだった頃は、ピレリやダンロップ、コンチネンタルやイングルベールが活躍します。

1960年代中盤から市販タイヤから大きく脱却して専用の太いタイヤになり、徐々にグッドイヤーやファイアストンというアメリカ勢が台頭し、スリックタイヤになってからはグッドイヤーが覇権争いを制します。

1970年代後半からはミシュランがラジアルタイヤを導入し、1980年代中盤までグッドイヤーと一進一退のバトルを繰り広げるも、突如ミシュランが撤退し、その後はグッドイヤーの1強時代が続きます。

1990年代後半にブリヂストンが参入すると、一気に形勢が逆転し、グッドイヤーが撤退。

2000年代に入るとミシュランが復帰し、ブリヂストンvs.ミシュランの熾烈なタイヤ戦争が勃発しますが、インディゲートによりミシュランが撤退。

2000年代後半にタイヤサプライヤーを1社のみにするというレギュレーションが制定され、タイヤ戦争は終焉し、そのタイヤサプライヤーがブリヂストンのみに。

そして2011年からピレリが独占サプライヤーになり現在に至ります。

タイヤメーカーが本気で開発し、メーカーごとにサーキットやコーナーで特性が変わるあの時代が懐かしい。

F1にタイヤ戦争が帰ってきてほしいと願うのは、私だけではないはず・・・です。

PDEFCAGBM
19506001
19517001
19527001
19538001
195440014
195510015
195620510
195770010
1958072110
1959810
196091
19618
19629
196310
1964100
196591
1966234
1967065
1968263
1969623
PDEFCAGBM
19702101
197147
197275
1973015
1974015
1975014
19760160
197701600
1978115
197987
1980113
198100213
19820097
1983069
19840214
1985115
1986115
198716
198816
1989016
PDEFCAGBM
1990016
1991115
199216
199316
199416
199517
199616
1997170
199879
199916
200017
2001134
2002152
200397
2004153
2005118
200699
200717
200818
200917
PDEFCAGBM
201019
201119
201220
201319
201419
201519
201621
201720
201821
201921
202017
202122
202222
202322
202424
202512
合計34382749100368175101
P=ピレリ・D=ダンロップ・E=イングルベール・F=ファイアストン・C=コンチネンタル・A=エイボン・G=グッドイヤー・B=ブリヂストン・M=ミシュラン

以上、最後までご覧いただきありがとうございました。

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大福
モータースポーツをこよなく愛す、セナプロ世代の四十代。 サーキット観戦デビューは、1996年フォーミュラニッポン第7戦の富士スピードウェイ。ど迫力のエキゾーストノートとタイヤの焼ける匂いを実感し、それまでテレビでしか観戦してこなかった事を悔やむ。以降、F1・WEC・スーパーGT・スーパーフォーミュラなどを富士スピードウェイ・鈴鹿サーキットを中心に多数観戦する。