人気記事:『ミニカーで振り返るF1マシン』シリーズ

F1にエントリーした19人の日本人ドライバー

服部尚貴

参戦1991
所属チームコローニ
出走2(0スタート)
決勝最高位
予選最高位
ファステストラップ0
算ポイント0

フォーミュラニッポンや全日本GT選手権(スーパーGT)で活躍した、服部尚貴もF1に参戦したことがある。

1991年に弱小のコローニから終盤の日本グランプリとオーストラリアグランプリに参戦するも、マシンの競争力不足でともに予備予選不通過。

片山右京

2016年11月 鈴鹿サウンドオブエンジンにて
参戦1992-1997
所属チームラルース
ティレル
ミナルディ
出走97(95スタート)
決勝最高位5位
予選最高位5位
ファステストラップ0
算ポイント5

1991年に全日本F3000のチャンピオンを獲得し、翌年ラルースからF1に参戦。

1993年にティレルに移籍すると、ハイライトは翌1994年ドイツグランプリ。

当時の日本人最高位となる予選5位を獲得し、スタートで2位にアップすると、3位をキープするもエンジントラブルで惜しくもリタイヤした。

日本人最多の97レースに参戦したが、1997年に「後進にシートを譲りたい」と惜しまれつつも引退した。

鈴木利男

参戦1993
所属チームラルース
出走2
決勝最高位12位
予選最高位23位
ファステストラップ0
算ポイント0

国内レースのトップドライバーのひとりであった鈴木利男もF1に参戦している。

1993年にラルースからF1デビューし、日本グランプリとオーストラリアグランプリの2戦にスポット参戦し、2レースとも粘り強い走りで完走を果たした。

F1デビューは38歳と、かなりの遅咲きであった。

井上隆智穂

参戦1994-1995
所属チームシムテック
フットワーク
出走18
決勝最高位8位
予選最高位18位
ファステストラップ0
算ポイント0

ジュニアフォーミュラ時代をヨーロッパで過ごした後、1990年から全日本F3に参戦するも目立った成績は残せなかった。

1994年にはふたたびヨーロッパへ渡り国際F3000に参戦するが、1度も入賞することはできなかった。

しかし日本企業のNOVAやユニマットなどのスポンサー資金を持ち込むカタチで、1994年の日本グランプリにスポット参戦を果たし、1995年にはフットワークに移籍してフルタイムF1ドライバーとなる。

ハイライトは1995年のハンガリーグランプリ。

エンジントラブルのためマシンを停車し、自ら消火器を持って消火作業をしようとした時、後方から来たレスキューカーに撥ねられ、その模様が国際映像に映ってしまった。

この出来事は今でもF1ファンの間で語り草となっており、2015年にF1公式サイトが企画した『ハンガリーグランプリ30周年、思い出に残る出来事30選』の4位にランクインした。

野田英樹

参戦1994
所属チームラルース
出走3
決勝最高位
予選最高位23位
ファステストラップ0
算ポイント0

日本期待の若手女性ドライバー野田樹潤の父親として知られる野田英樹も、F1への参戦経験がある。

1990年から1991年までイギリスF3に参戦した後、1992年から1994年の3年間は国際F3000へ参戦し、1994年に日本人で初めて表彰台を経験する。

するとその年の最後の3レースにラルースからF1に参戦するも、完走することはできなかった。

翌1995年はシムテックから全戦の契約を結ぶが、阪神淡路大震災の被害を受けたスポンサーが撤退したため、第6戦から参戦する契約を結ぶが、チームが第5戦で撤退してしまったため参戦には至らなかった。

中野信治

2013年10月 WEC富士にて
参戦1997-1998
所属チームプロスト
ミナルディ
出走33
決勝最高位6位
予選最高位12位
ファステストラップ0
算ポイント2

現在は無限のチーム監督や鈴鹿サーキットレーシングスクールの副校長を務める中野信治も、かつてF1で活躍した。

1989年、18歳の時に渡英しフォーミュラボクソールで修行したのち、1992年から全日本F3や全日本F3000→フォーミュラニッポンに参戦しながら、童夢F1のテストも行なった。

そして1997年にプロストグランプリでF1にデビューし2回の6位入賞を果たし、ランキング18位に入った。

翌1998年は片山右京の抜けたミナルディに加入し、最終戦の日本グランプリを最後にF1を離れた。

高木虎之介

参戦1998-1999
所属チームティレル
アロウズ
出走32
決勝最高位7位
予選最高位13位
ファステストラップ0
算ポイント0

高木虎之介は、ジュニアフォーミュラからミドルフォーミュラまで一貫して日本でキャリアを積み上げていく。

1994年第8戦では星野一義をぶち抜いて優勝し、星野から中嶋監督に、
「もうタイレルでもどこでもいいから、向こう(F1)にやっちゃってよ」
と言われたほどの速いドライバーであった。

1997年はF1への参戦を見据えてF1のサポートレースであるポルシェカップにもフォーミュラニッポンと同時に参戦した。

そして1998年、ティレルからF1にデビューする。

しかしティレルはすでに後のBAR代表になるクレイグ・ポロック(BAR)が買収しており、ティレルは戦えるほどのマシンではなかったが、チームメイトのリカルド・ロセットよりも予選・決勝ともに上位に位置していた。

翌1999年はアロウズに移籍するが、このマシンも速さにも信頼性にも乏しく、入賞することはできなかった。

天性の速さを持っていた高木虎之介だったが、マシンに恵まれなかった2年間のF1活動だった。

ちなみにF1を離れた高木虎之介は、翌年からフォーミュラニッポンに復帰し、10戦8勝の途轍もない記録を打ち立て、自らの手であらためて速さを証明した。

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大福
モータースポーツをこよなく愛す、セナプロ世代の四十代。 サーキット観戦デビューは、1996年フォーミュラニッポン第7戦の富士スピードウェイ。ど迫力のエキゾーストノートとタイヤの焼ける匂いを実感し、それまでテレビでしか観戦してこなかった事を悔やむ。以降、F1・WEC・スーパーGT・スーパーフォーミュラなどを富士スピードウェイ・鈴鹿サーキットを中心に多数観戦する。