世界を代表するGTカーレースとして人気を誇るスーパーGT。
その最上位のGT500クラスでは日本を代表するトヨタ・ホンダ・日産の日本3大メーカーが技術の粋を集めて鎬を削っている。
しかしその前身である全日本GT選手権黎明期には、最上位のGT1(現GT500)クラスにも多くのメーカーやブランドが参戦していた。
その中には世界で伝説となっているいわゆるスーパーカーも・・・。
ということで今回は全日本GT選手権黎明期に参戦した『伝説のスーパーカー』を5台紹介しよう。
ランボルギーニ・カウンタック
- 参戦時期・・・1994年
- チーム・・・KEN WORF with TERAI ENG(JLOC)
スーパーカーメーカーといえばランボルギーニ。そんなランボルギーニの代表的なモデルといえばスーパーカーブームの火付け役であるカウンタックだ。
そのカウンタックも1994年に全日本GT選手権のGT1クラス(現在のGT500クラス)に参戦している。
マシンを製作したのは寺井エンジニアリングで、ランボルギーニ社とゆかりの深かったJLOCの則竹功雄JLOC代表の協力で、カウンタックの最終モデルである25thアニバーサリーをベースにレーシングマシンに仕立てた。
ランボルギーニ社はそれまでレース活動をしてこなかったが、この全日本GT選手権がきっかけとなりランボルギーニ社の心を動かし、翌年から当時の最新車両であったディアブロをベースに同社がチューンアップし参戦。その後もムルシエラゴ、ガヤルド、ウラカンなど、現在でもスーパーGTに参戦を続けている。
ちなみに1994年シーズン、カウンタックをドライブしたドライバーは、漫画『サーキットの狼』の著者として有名な池沢さとし選手(現:池沢早人師氏 私としてはフェラーリ教教祖の清水草一氏の師匠)だった。
フェラーリ・F40
- 参戦時期・・・1994年-1996年
- チーム・・・TEAM TAISAN
ランボルギーニが出ればやっぱりフェラーリだろう。
そのフェラーリ社の創業40周年を記念して発売された伝説のフェラーリF40は世界生産1311台の限定車両で、日本のバブル期と重なり走る不動産と称された。
そんな激レア車両のF40だが、過去に全日本GT選手権に参戦した実績がある。
初登場は全日本GT選手権初年度の1994年で、その希少なマシンをエントリーさせたのはかつて全日本GT選手権、スーパーGTの代表的なチームであったチームタイサン(2018年を最後に撤退)だった。
GT1(現GT500)クラスに参戦したフェラーリF40は、1994年最終戦のMINEサーキットでのレースで太田哲也/オスカー・ララウリ組が優勝を遂げた。
その後1995年も国産ワークス勢に対し互角の戦いを繰り広げたフェラーリF40であったが、1996年を最後に全日本GT選手権の参戦を終了した。
マクラーレン・F1 GTR
- 参戦時期・・・1996年、1999年-2003年、2005年
- チーム・・・チームラークマクラーレン(チーム郷)、チームTAKE ONE、一ツ山レーシング
次はマクラーレンの市販車第1号のマクラーレンF1 GTRを紹介しよう。
前に挙げたランボルギーニのカウンタックやフェラーリのF40は、市販車の発売から年月が経っていたこともあり、全日本GT選手権で大きな活躍はできなかったが、マクラーレンF1 GTRは大成功を収めたマシンだった。
レーシングモデル28台を含む総生産台数106台の超希少車のマクラーレンF1 GTRは、レギュレーションによりGTマシンで争われることとなった1995年のル・マン24時間で総合優勝を果たす。
そんな世界最強のGTカーが日本の全日本GT選手権に参戦したのはル・マン制覇の翌年の1996年で、チームラークマクラーレン(後のチーム郷)が2台のマシンをGT500クラスにエントリーした。
その2台のマクラーレンF1 GTRは全レースでポールポジションとファステストラップを記録し、全6戦中4勝を挙げ圧倒的な速さでシリーズを制した。
しかしその速さが仇となり、GTAは度重なる馬力規制やバラストによるハンデを課すこととなり、チームラークマクラーレンは翌1997年以降の参戦を辞退した。
その後1999年にチームTAKE ONEがロングテールバージョンで復活を遂げ2002年まで参戦し、2003年と2005年には一ツ山レーシングがエントリーをしている。
ランチア・ラリー037
- 参戦時期・・・1994年
- チーム・・・ROSS Competition
1982年の世界ラリー選手権(WRC)でマニュファクチャラーズチャンピオンになったランチアのラリー037。
言わずもがなラリー界の名車だが、じつはのマシン全日本GT選手権に参戦していたのだ。
ロッソコンペティションにより全日本GT選手権のレギュレーションに合わせて改良されたランチアラリー037は、1994年第3戦の富士スピードウェイ戦にGT1(現GT500)クラスにエントリーした。
しかしギヤ比はラリー仕様のクロスレシオのままで、富士の長いストレートでなんと170km/hしか出せなかったのだ!
結局GT2(現GT300)クラスの最後尾とほぼ同様のラップタイムしか記録できず、決勝では7周遅れで完走し、この1戦限りで参戦を終了した。
ポルシェ・962C
- 参戦時期・・・1994年
- チーム・・・TEAM TAISAN
今回は全日本GT選手権に参戦したスーパーカーということだが、最後に番外編ということでポルシェ962Cを紹介しよう。
おいおい完全なレーシングカーだろ・・・というよりGT選手権なのにGTじゃなくて純レーシングカーが出場していいのかよ!
どうやら黎明期は参戦が許されていたようだ・・・。
ポルシェ962はポルシェ社がル・マン24時間やIMSA用に開発製造したプロトタイプカー。いわゆるCカーで、1985年に変更された安全基準に合わせて962Cとなった。
そんな純レーシングカーが全日本GT選手権に参戦したのはシリーズ初年度の1994年だった。
このマシンをエントリーさせたのは先のフェラーリF40と同じくチームタイサン。そう、チームタイサンはポルシェ962CとフェラーリF40の2台体制だった(どんだけ資金があるんだ!?)。
しかし純レーシングカーをGTカーと競わせるため、運営側は300kgのウエイトを積んだりリストリクターでエンジン出力を絞ったりしたが、それでも第1戦と第3戦でポールポジションを獲得し、第3戦では優勝(優勝ドライバーの1人は近藤真彦選手)も記録した。
やはりレーシングカーとGTカーではポテンシャルが違いすぎるのだ。
だがその後ライバルの国産ワークス勢がマシンの改良によりタイムアップをしていく中、ポルシェ962Cは規制が多くタイムアップは困難だったため、1994年限りで参戦を中止した。
ちなみにこの1994年全日本GT選手権の第3戦での勝利が、名車ポルシェ962Cが記録したメジャーレースでの最後の優勝となった。
まとめ
今回は全日本GT選手権黎明期にGT500(GT1)クラスで参戦した伝説のスーパーカーを5台紹介してみた。
メーカー | 車種 | 参戦時期 |
---|---|---|
ランボルギーニ | カウンタック | 1994 |
フェラーリ | F40 | 1994-1996 |
マクラーレン | F1 GTR | 1996,1999-2003,2005 |
ランチア | ラリー037 | 1994 |
ポルシェ | 962C | 1994 |
世界でも有数のGTカーレースとして認知されている今日のスーパーGTは、特にGT500クラスでは日本を代表する3メーカーの開発競争が繰り広げられている。
しかしスーパーGTの前身である全日本GT選手権時代の黎明期はまだまだおおらかな時代で、今回挙げた伝説のスーパーカーもGT1(GT500)クラスに参戦できたのだ。
その後、1996年に当時の世界最高峰GTマシンであるマクラーレンF1 GTRの参戦でその開発競争が一気に底上げされ、3メーカーによりマクラーレンはシリーズから追い出されてしまったが、結果、日本の3メーカーが本気で戦う場に変わっていった。
私としては今後スーパーGTがさらに世界に躍進し、GTカーのF1となってもらい、フェラーリやマクラーレン、ランボルギーニなど世界のスーパーカーメーカーが参戦して、いわゆる最新のハイパーカーによる戦いの場になってもらいたいと思っている。
そう、全日本GT選手権黎明期のようなマシン構成で、戦闘力は今と同様に各車一進一退。
えっ?FIA GT選手権(1997-2009)があったじゃないかって?
いや、あのシリーズにはカリスマがいなかった。
しかしスーパーGTを司るGTAには日本のバーニー・エクレストンこと坂東正明代表がいる!
彼ならばできる・・・気がする・・・。
以上、最後までご覧いただきありがとうございました。