今回は旧東海道踏破の旅の続き。
前回は新年早々に三島宿から沼津宿を経由して、原宿まで歩きました。

そして2026年1月12日は、前回の終着点である原宿中心地の原駅交差点から旅を進めます。
では今回も晴天の最高の天気の中、歩いて行きます。出発進行!
ザックリ見出し
高嶋酒造

出発してすぐに最初の目的地に到着です。
こちらは文化元年(1804年)創業の高嶋酒造。山岡鉄舟が命名した白隠正宗が有名な蔵元です。

でも鉄舟さん、白隠禅師生誕の地の近くだから白隠正宗とは、捻りが足りないよ。
原宿西木戸跡

高嶋酒造の先には原宿西木戸(京見附)の説明板がありました。
それによると原宿は、東木戸から西木戸まで660間(2.2km)あったそうです。

ただ、実際西木戸は、説明板から数100mほど西の、道路が広くなっているこの場所にあったようです。

そして新田大橋を渡ります。
今日も愛鷹山の先に富士山が顔を出し、

平和の象徴が羽を休めます。
原の一里塚跡

新田大橋の先のこの辺りにあったのが原の一里塚(一本松の一里塚)。

すでに宅地化されて面影は残っていませんでしたが、住宅の脇に標石と手製の説明書きがありました。
江戸日本橋より三十二里(約128km)。

そして原の一里塚跡から600mほど歩くと、右手に次の目的地が見えてきました。
浅間神社

こちらが慶安三年(1650年)創建の浅間神社です。

三社宮とも呼ばれた一本松新田の鎮守の境内には、文化十一年建立の常夜灯や、延享三年建立の御神燈などがありました。
大通寺

浅間神社の先にあるのが大通寺。
幕末に寺子屋が開かれたという大通寺の境内には、五百羅漢像や、延命地蔵堂があるそうですが、今回は山門で手を合わせて先に進みます。
浅間愛鷹神社

大通寺の先には延享二年(1745年)創建の浅間愛鷹神社があります。

浅間愛鷹神社はかつて助兵衛新田と呼ばれた当地の鎮守です。
現在桃里と呼ばれるこの地区は、遠州より移住した鈴木助兵衛が新田を開拓したため、助兵衛新田と呼ばれていました。
ただ、あまりにも聞こえが悪いとして、明治四十一年に桃里に改称したそうです。
まあ、桃=ピーチも海外の一部では尻を連想するちょっと助兵衛な名ですが・・・。

そんな鈴木助兵衛の功績を伝えるため、境内に石碑が建てられていました。
地名として残るはずだった助兵衛さん、彼は立派なことをしたのに名前のせいで気の毒ですね。

その先、富士山を背にして石像が・・・。

土台には説明らしきものがあったので見てみると、ただの新聞。。。なんだこれ???

変な石像が気になりながらも、その先の東海道本線植田踏切を横断して左手が次の目的地です。
植田三十郎墓・八幡神社

こちらは植田三十郎の墓。植田三十郎は、ここ植田新田を開拓した中心の人物だそうです。

植田三十郎の墓の先には八幡神社がありますが、こちらは植田新田の鎮守として崇められています。

八幡神社のすぐ先で長かった沼津市を抜け、いよいよ富士市に入りました。

そしてすぐのY字路を右に進み県道に合流します。

その県道はこんな雰囲気で、

駿河湾がさらに近くなり、

右手に富士山が私の旅を見守ります。

そして、東田子の浦駅入口の看板手前に、次の目的地が見えてきました。
六王子神社

六王子神社に到着しました。

こちら本殿の横で、地元富士市の高校生が制作した記念おふだを頂けます。

それがこちら。裏には六王子神社の説明が書かれていました。
それによると、むかし、七人の巫女が京に上る途中、その中の一人だった阿字(おあじ)が水渦巻、底知れぬ深さの三ツ俣渕に住む悪竜の生贄にされることになり、これを悲しんだ六人の巫女は、皆浮島沼に身を投げてしまいました。
哀れに思った柏原の人々が六人の巫女を神として祀ったのが、ここ六王子神社の始まりだそうです。
尚、生贄になった阿字は、鈴川の阿字神社に祀られているそうです。
間宿柏原本陣跡

六王子神社の先に、間宿柏原本陣跡の標識がありました。

この辺りに茶屋が軒を連ね、茶屋本陣があり、名物は浮島沼の鰻だったそうです。
立圓寺

柏原本陣のすぐ先にあるのが立圓寺です。

立派な佇まいの仁王門をくぐると、

さらに威厳のある本堂がありました。

そして本堂の横には、尾張藩侍医の柴田景浩がこの寺から見る富士が絶景と、文化五年(1808年)に建碑した望獄碑があります。
確かに絶景ですね。
常夜燈

立圓寺の道を挟んでとなりには男女双体道祖神があったようですが、近年撤去されたようでありませんでした。
神奈川県ではかなりの数を見た道祖神ですが、静岡県に入ってからはめっきりで、この辺りから先は常夜燈が数多く設置されています。
こちら民家の敷地内にあったのが大正三年建立の常夜燈です。

そして広沼橋を渡ると、次の目的地が向こう岸に見えてきました。
増田平四郎像

こちらは天保の大飢饉や重度の水害からここ浮島沼を救ったという増田平四郎の像。
スイホシ(水干)と呼ばれる排水路の大土木工事を行ったそうです。
沼田新田の一里塚

増田平四郎像のとなりの茂みにひっそりと石碑があります。

石碑には旧東海道一里塚と書かれていますが、この場所にあったのが沼田新田の一里塚。
ここまで一里塚を見てきて、すっかり好きになった私としては、もう少し整備して欲しいのですが・・・。
江戸日本橋から三十三里(約132km)になります。
手差し道標

沼田新田の一里塚から少しだけ歩いた場所に丸い石碑がありますが、こちらは明治四十二年建立の手差し道標です。

百年以上雨風に打たれて何が書かれているのかわからない。

横の文字は解読可能。
『須津村役場一里 吉永村役場三十一町』と刻まれていますが、まだ存在しているのでしょうか。

そして道標の先に鳥居が見えてきました。
淡嶋神社

手差し道標のとなりにある淡嶋神社は、和歌山県の加太淡嶋神社を本社とする田中新田の鎮守。
女性特有の病気回復、安産、子授けの神様を祀る神社です。
愛鷹神社

淡嶋神社の先にある愛鷹神社は檜新田の鎮守。
境内に秋葉常夜燈や道祖神などがあるそうですが、本日は先が長いので、鳥居の前で礼をして先を急ぎます。

愛鷹神社から300mほど歩くと道が高架になるのですが、その前の、

旧東海道順路の看板の通りに左折。

そしてすぐに右折をし、

その先の道に合流するのが旧東海道です。

合流するとすぐに次の目的地が見えてきました。
庚申堂

こちらは庚申堂。
ちなみにこれまでにも多くあった庚申堂は、六十日に一度訪れる庚申(かのえさる)の日に、人間の三尸(さんし)の虫を封じるとされる庚申塔や青面金剛を祀る御堂です。

ここの庚申堂にも、境内に庚申塔や青面金剛像などが祀られていました。

成人の日の祭日ということで、軒先に日の丸を掲げるお宅もありました。日本人としてこのような文化は大切にしたいですね。
秋葉常夜燈

庚申堂から600mほど歩いた辺りに秋葉常夜燈があるはず、と思い探していたらありました。土台だけ・・・。

無惨にも三つに折れた常夜燈。
古い建造物なので致し方ないことですが、ぜひ修復してもらいたいものです。

その秋葉常夜燈の先に大きな木が見えました。こちらが次の目的地です。
妙法寺

この階段を上がり、

さらに鳥居をくぐり、その先の階段を上ると、

立派な妙法寺の本堂が現れました。

地元では毘沙門さんと呼ばれる妙法寺は、木造造りの本尊の装飾が実に美しかったです。
毘沙門天大祭のだるま市は、高崎、深大寺と並ぶ、日本三大だるま市の一つに数えられているそうです。

階段を下ると富士山が綺麗に見えたのも印象的でした。

そして少し先に、中東の方らしき立派なお屋敷が右手に見えるので、その先の交差点を右折。

東海道本線の鈴川踏切を横断し、

線路を左に見ながら進みます。

吉原駅前に趣のある木造建築がありました。
この辺りが元の吉原宿でしたが、寛永十六年(1639年)の大津波で壊滅的な被害を受け、内陸部に移転しました。

ずっと右に見える富士山ですが、内陸部に迂回を強いられたことにより、この後富士山が左手に見える場所がありますが、この辺りはまだ右側に見えています。

そして次の目的地が見えてきました。
馬頭観音像

こちらは天明三年(1783年)建立の馬頭観音像。
神奈川県では道端に多く道祖神が祀られていましたが、静岡県に入ってから道祖神はほぼ見られなくなり、その代わりに馬頭観音が祀られています。
馬の守護神ではなく、私たち旅人を守ってほしいと思ってしまいますが・・・すみません、ばちが当たりますね。

馬頭観音像の先の川合橋を渡り、

その先のY字路を道なりに左へ。
富士山は正面に見えるようになりました。

Y字路の先には名残りの松が一本残っていました。

そして国道139号線を横断して左折し、

すぐ先の高架下のY字路を右に進むと、

富士山が正面に見えます。左富士の場所は何処?

この辺り旧東海道はS字の線形で、

富士山は右に戻ったりとなかなか焦らします。

ん!?あの右カーブが怪しい!
左富士神社

そのカーブの場所にあるのが、寛政八年(1796年)創建の左富士神社。

こちらは伝統的に悪王子神社と呼ばれていたのですが、明治十一年より現在の左富士神社へと改められたそうです。

名前の通りこの辺りから富士山が左に見える場所で、本殿裏手に回ると正面左に確認できました。
尚、先ほど吉原駅前を通過する際、吉原宿は内陸に移転したと書きましたが、この辺りが移転先の中吉原宿だったそうです。
しかし延宝八年(1680年)の大津波でまたも宿場は壊滅し、新吉原に移転します。
依田橋の一里塚

左富士神社の境内に依田橋の一里塚の石碑があります。
依田橋の一里塚は当初、先ほど歩いてきた海の近くにあったそうですが、その後吉原宿が元吉原から中吉原、新吉原と移るに従い一里塚も移転し、最後は左富士神社の北側になったそうです。
その場所は現在民有地になっているため、左富士神社境内に石碑があります。

また境内には可愛らしい一里塚のモニュメントもありました。
江戸日本橋から三十四里(約136km)。
名勝左富士

そして左富士神社のすぐ先に、富士山が正面左に見えてきました。
ここが、かの有名な名勝左富士。

ここまで旧東海道の道中、富士山はずっと右手に姿を見せてきましたが、この辺りは松並木の間から左手に見えたことから左富士と呼ばれ、街道の名勝となりました。
これは先ほどから書いている通り、吉原宿が災害から逃れるために二度の移転をしたことに由来します。
東から西に真っ直ぐ延びていた旧東海道が急に北方にまわり込み、道筋が一時的に北東を向くため、左に望ことになります。

ただ現在は工場が建ち、かつての風情はありませんが、わずかに残る一本の老松が往時の左富士をしのばせてくれます。

この角度からならば少しは見えますが、前方の工場がやっぱり邪魔。
ダイオーペーパープロダクツって大王製紙でしょ? モッタカさん頼むよ!
ちなみに旧東海道で富士山が左に見える場所はこの他では南湖だけですが、その南湖では天気が悪く左富士が見られませんでしたので、今回はしっかりと見ることが出来て良かったです。

その先で旧東海道は左に弧を描き、

富士山は所定の場所に戻りました。
馬頭観音

左富士の先の道端に馬頭観音があります。
お馬さまの無事を祈願するのも良いことだけど、旅する人間も応援してくださいと思っていたら、となりに疫病退散や道標として南無妙法蓮華経題目碑もあり、ちょっと嬉しい。

旧東海道はその先のY字路を左に進み和田川を渡るのですが、橋手前の袂が次の目的地です。
平家越碑

平家越橋の袂に平家越と書かれた石碑があります。
この場所は治承四年(1180年)の源平富士川の合戦の際に、平家が陣を張った場所。
しかし水鳥の羽音に敵襲と驚き、京まで滑走してしまったそうです。
平家は意外と気が小さかったのでしょうか、ちょっと親近感を覚えました・・・。

平家越橋を渡ると旧東海道はこんな雰囲気になり、右手の大王製紙の工場入り口に椅子があったので座ってみると、

富士山を綺麗に見ることが出来ました。
先ほど左富士の場所では大王製紙の工場で富士山が遮られましたが、これで帳消しとしましょう(偉そう!)。
東木戸跡

その先に標柱があり、ここが吉原宿の江戸(東)口です。
先ほどから書いている通り、吉原宿は二度大津波に襲われ、天和二年(1682年)に三度目の移転でこの地になりました。
五十路の静岡県民の私は、幼少期から東海地震がまもなく来ると言われ続けてきて、少々慣れっこになっていましたが、この地を歩き大津波の甚大な被害を知り、あらためて東海地震への備えをしようと思いました。
歩みの記録

吉原宿に入り、岳南鉄道の吉原本町駅前の本町踏切で午前中の部を終了。無事、原宿から吉原宿を踏破しました。
では、いつものようにiPhoneのフィットネスアプリで、歩みの記録を見てみましょう。

まずは地図から。
今回は原宿を出てから駿河湾に沿ってずっと西方向に進んで来ましたが、田子の浦港の東に位置する吉原駅から北に進んでいます。
これは本文中で何度も書いている通り、大津波による吉原宿の移転の関係。
江戸初期は吉原駅の付近に吉原宿(元吉原宿)があり、田子の浦をかすめながらそのさきも西に行っていたようですが、その後吉原宿は内陸に移転し、ルートが北になりました。
北北東に進んでいる辺りが、名勝左富士の場所ですね。

次に旅の詳細です。
10時前に原宿を出発し、吉原宿に着いたのが13時半ということで、3時間半ほどかかりました。
今回は寄り道が少なく、宿場間の三里二十二間、実測11.2kmとほぼ同じ11.7kmを歩きました。
ということで今回は以上。
次回は午後の部。吉原宿から富士川を渡り、蒲原宿までの道中を書いていきますので、興味のある方はお付き合いください。











コメントを残す