今回は旧東海道踏破の旅の第八回。
前回は平塚宿の入り口である、平塚駅前交差点までの道のりを歩きましたので、本日2025年11月23日はここ平塚宿から大磯宿を経由して、小田原宿までを歩きます。
そのうち今回の記事は、午前中に歩いた大磯宿までの二十八町。現在の実測値では4kmと短いですが、見どころの多い道のりでした。
ザックリ見出し
平塚駅前から出発

前回の到達地点である平塚駅前交差点から出発です。
時刻は午前十時ということで今回も遅い出発となりましたが、日の暮れる前になんとか小田原まで辿り着きたく、急いで足を進めます。

商店街を歩き、早速旧東海道を逸れてこの角を左に。

そしてすぐに右に行き、

この角を左に行くと最初の目的地になります。
お菊塚

お菊の標石があるこの場所は、番長皿屋敷で有名なお菊塚。「一枚、二枚・・・九枚、一枚足りない」と叫ぶ有名な怪談話のお菊の塚です。

現在は紅谷町公園になっていましたが、あまり夜には行きたくない場所かも。
そして元来た道を戻り、旧東海道に合流します。
江戸見附跡

そして少し歩くと平塚宿の江戸方見附が見えてきました。
土盛りされた土台の上に竹矢来が組まれ、かなり再現度が高い。江戸日本橋からここまで多くの見附跡を観てきましたが、ここまで当時の雰囲気を再現した見附は少なかったです。

この日は催し物が開催されていて、多くの地元市民で賑わっていました。

旧東海道の先には丸い形が特徴の高麗山が見えています。

そして次の目的地が見えてきました。
平塚宿脇本陣

こちらが山本安兵衛が務めていた平塚宿の唯一の脇本陣がありました。

標石の前のこのマンションの辺りにあったのかと思われます。
幕府公用人や大名を泊める本陣は地元の有力者が務めていましたが、本陣に次ぐ有力者が務めていたのが脇本陣で、本陣の補助的な役目をしていました。
脇本陣は本陣とは違い、平常時は旅籠(現在のホテル)としても営業が可能だったそうです。
高札場跡

脇本陣のすぐ先にあったのが高札場。
こちらの平塚宿の高札場は長さ二間半(5m)、横一間(1.8m)、高さ一丈一尺(3m)ありました。
東組問屋場跡

高札場の向かい側には東組問屋場がありました。
問屋場は旅人に茶屋や旅籠(ホテル)の案内や、荷物の継立をした場所で、平塚宿には東組と西組の二カ所ありました。

そして、次の目的地の案内が見えてきました。
平塚宿本陣跡

平塚宿の唯一の本陣があった場所になります。
平塚宿本陣は代々加藤七郎兵衛が務め、徳川十四代将軍家茂は上洛に際して二度休憩。明治天皇は東京行幸と還都に際して二度休憩したという、由緒正しい本陣です。

案内の目の前にある神奈川銀行の場所が、本陣の跡地だと思われます。
それにしても本陣や脇本陣の跡地は金融機関になっていることが多いですね。

神奈川銀行の敷地内にはご覧の石標があり、後世にしっかりと伝えるようにしてくれていました。

その先にY字路があり、旧東海道は右側の道を進みます。
西組問屋場跡

Y字路の入り口の右手にあるのが、平塚宿の二つの問屋場の一つ、西組問屋場の跡地。現在は消防署になっていました。
問屋場には、問屋主人、名主、年寄、年寄見習、帳附、帳附見習、問屋代迎番、人足指、馬指などの宿役人などが十余人以上勤務していました。
平塚宿はこの問屋場の一カ所のみでしたが、加宿になり東組問屋場を新設し、こちらは西組問屋場となりました。

旧東海道は突き当たりを鈍角に左に曲がります。後ろに見える高麗山が大きくなってきましたね。
上方見附跡

そして先ほどまで歩いて来た道に戻ると見えて来たのが平塚宿の上方見附(京見附)跡。

京側には『東海道平塚宿』と書かれた石銘板がありましたが、かなり疲れており、

説明板もご覧の通り読めませんでした。

そして上方見附跡を過ぎると、平塚市を後にして大磯町に入ります。
東海道五十三次で描かれた高麗山

散った桜の花びらが川面を覆ったという花水川を渡ります。

その花水川から見た、ぽっこり丸い形が特徴の高麗山。歌川広重の東海道五十三次で描かれた高麗山は、おそらくこの構図でしょう。
今もむかしも地域の方に愛される可愛いお山に、私も癒されました。
高来神社

花水川を渡り、高麗山の麓にあるのが高来神社。
寛永十年(1634年)に東照大権現が勧請された高来神社は、古来より高麗、大磯の鎮守でした。
虚空蔵尊

高来神社入り口の先にあるのが虚空蔵と熊野権現を祀った御堂。
ここに下馬標が立てられ、参勤交代の大名たちは、馬から降りて高来神社に最敬礼をして静かに通ったと言います。

虚空蔵尊の先の化粧坂交差点のY字路で、国道1号線を離れて右に進みます。
虎女化粧井戸

江戸時代の雰囲気を残す街道は、紅葉も最高潮で気持ちよく歩いていましたが、すぐにおどろおどろしい名前の井戸があります。
それが虎女化粧井戸。なんちゅー名前ですか。
伝説によると、鎌倉時代の大磯の中心は化粧坂のこの付近にあり、当時の大磯の代表的女性の虎御前もこの近くに住み、朝夕この井戸を汲んで化粧をしていたのでこの名がついたといわれているそうです。
名前が虎御前なのね・・・安心しました。
化粧坂の一里塚跡

虎女化粧井戸のすぐ先のこの辺りにあったのが化粧坂の一里塚。

江戸日本橋より十六里(約56km)にあった化粧坂の一里塚は、高さ約3mの盛り土があり、海側の塚の上には榎が、山側にはセンダンが植っていたそうです。

松と紅葉の中を気持ちよく歩いていると、

道の脇にこの辺りを描写した北斎の浮世絵がありました。江戸時代はこの松並木の先に相模湾が見えたようですね。

街道の先にはJR東海道本線があり、現在の東海道はこちらの地下道を抜けていきます。

地下道を抜けると、

ご覧の通りまたも松並木。何度も書きますが、この辺りは歩いていて実に気持ちよかったです。
江戸方見附跡

そして、街道に倒れて来そうな松の先にあったのが大磯宿の江戸方見附です。

案内板によると、ここには江戸時代、傍示杭と呼ばれる木製の標柱が建てられていたそうです。

江戸方見附で松並木はなくなり、当時と同じように民家になり、

その先でふたたび国道1号線と合流します。
神明神社

国道1号線に入り程なくしてあるのが神明神社。
この辺りは神明町といい、氏神として地元の信仰を集める神社です。
歩みの記録

そして大磯宿の中心地、大磯駅入口交差点に到着。
では、いつもようにApple Watchのフィトネスアプリで、今回の記録を見ていきます。

まずは地図から。
平塚宿から大磯宿までは二十七町実測4kmの短い道のり。東海道本線ではご覧通りわずか一駅の距離になります。
前半は高麗山に向かって歩きましたが、まん丸く見えた高麗山は実は後方に長く伸びていたのはこの地図を見るまで知りませんでした。

この日はこの後小田原宿までの長い道のりが控えているため、旧東海道を逸れたのは最初のお菊塚のみでその他には寄り道をしなかったため、ほぼ実測通りの4.3km。午前十時に平塚駅前を出発し、一時間余りで大磯駅前に到達することができました。
そんな今までの道中では最短の宿間でしたが、途中に高麗山や江戸時代の雰囲気を残す街道などがあり、見どころが多くあり、非常に楽しく歩けました。
ということで今回は以上。次回はこの後に歩いた大磯宿から小田原宿までの道のりを書いていきますので、ご興味のある方はどうぞご覧ください。










だんだんと佳境に入って来た感じですね。お菊塚も面白い。姫路城にお菊井戸があります。調べてみると姫路の方が本家本元で播州皿屋敷。話が各地に伝わって番町皿屋敷等のお話が出来たとか。あるお話がそれぞれの地で語られるなんて面白いですね。次回、楽しみにしまいます。お気をつけて・・・。☺️