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【其ノ九】東海道五十三次を歩く(大磯宿→小田原宿)

今回は旧東海道踏破の旅の第九回。

2025年11月23日は十時に平塚宿を出発して昼前に大磯宿に到着。

そして、今回は大磯宿から次の宿場、小田原宿を目指します。

では、大磯宿の中心地、大磯駅前交差点から出発です。

小田原宿までは四里(17km)と今までで一番長い距離になりますが、果たして日が暮れる前に到着できるのか!?

秋葉神社

最初に見えてきたのが秋葉神社。

宝暦十二年(1762年のに大磯宿は大火に見舞われ、火伏の秋葉大権現を勧請しました。

そんな秋葉神社を正面から見るとかなり狭小でしたが、狭い敷地に立派な鳥居と松の大樹が見事に収まっていました。

北組問屋場跡

大磯宿には北組と南組の二カ所の問屋場があり、こちらは南組問屋場があった場所。

現在は駐車場になっていました。

小島本陣跡

秋葉神社の筋向かいにあったのが、大磯宿三軒の本陣のうちの一つ、小島本陣です。

小島本陣は建坪二百四十六坪ありましたが、先の秋葉神社の項で書いた大火で全焼し、再建をされるも坪数は縮小したそうです。

そんな小島本陣は現在、ハレギノシャトルというレンタル着物の店になっており、江戸時代の店舗を彷彿とさせる趣のある建物が再現されていました。

店舗の前には説明看板とともに当時の小島本陣の絵図がありました。

地福寺

小島本陣のとなりには地福寺があり、このお寺には島崎藤村夫婦の墓があるそうです。

尾上本陣跡

大磯宿二つ目の本陣、尾上本陣は小島本陣のすぐ西隣りにあり、現在は中南信用金庫になっていました。何度も書きますが、本陣跡が金融機関になることが実に多いですよね。

建坪二百三十八坪あった尾上本陣でしたが、小島本陣とこの後紹介する石井本陣とともに大磯の大火で全焼したそうです。

そんな中南信用金庫の脇には、尾上本陣、そして大磯小学校発祥の地と書かれた石碑がありました。

その尾上本陣の先には盆栽を大きくしたような松の木が植えてありました。旧東海道には松がよく似合います。

石井本陣跡

そして尾上本陣の筋向いには石井本陣がありました。

現在は汐彩のお宿大内館という旅館になっており、佇まいから由緒正しきお宿だということが伺えますね。

ちなみにこちら石井本陣の建坪は二百三十五坪だったそうです。

この街道は、いかにもお宝が眠っていそうな趣のある蔵や、伝統の味を受け継いでいそうな和菓子屋などがあり、歴史の深さを感じます。

そして旧東海道はこちらのY字路を左に進み、しばし国道1号線と別れます。

新島襄終焉の地・南組問屋場跡

そのY字路の股の三角地部分にあるのが新島襄終焉の地の石碑がありました。

無知な私は新島襄を知りませんでしたが、説明板によると欧米先進国の新しい知識を求めて、幕末に密脱国し、アメリカで学び、帰国後に同志社大学の前身である同志社英学校を創設した人物だそうです。

同志社大学設立を企図するも病にかかり、ここ大磯の百足屋旅館で生涯を閉じたそうです。

ところで、百足屋といえば品川宿脇本陣も同じ屋号だったはず。チェーン店なの?と、どうでもいいことを考えてしまいました。

そんなこの場所は、大磯宿のもう一つの問屋場、南組問屋場があった場所でもあるそうです。

旧東海道は少しだけ外回りをしましたが、すぐに国道1号線と合流します。

湘南発祥之地碑

国道1号線に合流してすぐにあったのが湘南発祥之地碑。

脇の説明板によると、中国湖南省にある洞庭湖のほとり、湘江の南側を湘南といい、大磯がこの地に似ているところから湘南と呼ばれるようになったそうです。

現在は全国で知らぬ者はいないほどの地名ですが、中国湖南省の湘南に由来するとは。

鴨立庵

湘南発祥之地碑のとなりにあるのが、日本三大俳諧道場の一つ鴨立庵。

見るからに歴史ある佇まいの日本建築に慄き、入り口を拝見するだけで退散しました。

大磯や
波音つれて
小田原へ

大福、心の俳句です。

上方見附跡

鴨立庵から少し歩いた場所にあるのが大磯宿の京口見附。

現在は見附の台形状の石垣が再現されていましたが、少々荒れていました。

松並木

上方見附を出ると、ここから東海道の松並木が続き、その中を歩けます。

樹齢四百年を超えるであろう太く天まで聳える大樹の松の木も多くあり、江戸時代から途方もなく多くの旅人を見守っていたのだと考えると、胸がジーンと熱くなりました。

明治記念大磯邸園・滄浪閣跡

こちらは初代総理大臣を務めた伊藤博文の邸宅滄浪閣があった場所。関東大震災で倒壊後しましたが大正十五年に再建され、現在に至ります。

また、伊藤博文が邸宅を構えたことで、山縣有朋、大隈重信、西園寺公望、原敬などが大磯に別荘を建てたとのことで、現在はこれらの邸宅を明治記念大磯邸園として公開されています。

入ろうとしましたが、入口に立ち入り禁止と書かれていたので退散するも、どうやら立ち入り可能だったようです。

観覧しとけばよかったなあ。

八坂神社

しばらく歩くと八坂神社があります。

広い境内には大きなクスノキが聳えていました。

道祖神

八坂神社の先には道祖神があり、傍には西國三十三所順禮講供養塔がありました。

道祖神

そして血洗川という恐ろしい名前の川を渡り、またも道祖神。こちらには水神が祀られていました。

ちなみに血洗川の由来は、近くの小磯城での合戦で、刀の血を洗い流したことに由来しているそうです。

旧東海道はこのY字路を右に曲がるのですが、少し寄り道して真っ直ぐに進みます。

そして、すぐ左手に目的の場所がありました。

旧吉田茂邸

こちらがサンフランシスコ平和条約を締結したことでも知られる、吉田茂元総理大臣の旧邸宅です。

平成二十一年に焼失するも、八年後に再建。邸宅の日本庭園はまさに紅葉の真っ只中で、真っ赤に染まった紅葉がとても綺麗でした。

旧吉田茂邸を観覧した後は、先ほどの道を戻り、Y字路を左に曲がり旧東海道に復帰します。

そして右手に大磯城山公園を見て、

その先のY字路を左に進み、

真っ白い不動橋を渡り進みます。

賓前院

すると左手に現れたのが賓前院。

境内には楠の木やイチョウなどがあり、いい雰囲気でした。

旧東海道は緩やかに登り、この場所からは下になります。

そして国道1号線と並走すると、次の目的地が見えてきます。

国府本郷の一里塚

この辺りにあったのが国府本郷の一里塚(実際にはこの看板の200mほど江戸寄り)。江戸日本橋から十七里目(約68km)になります。

こちらには一里塚の説明がありました。

それによると、奥州の藤原氏が白河から率土ケ浜までの二十一日の行程を一里ごとに笠卒塔姿(かさとそうば)を建てたのが一里塚の始まりで、その後管内の里程を定め、一里を三十六町として近畿諸国につかを築きその上に榎を植え一里塚を築かせたのが織田信長。

その後、徳川氏がこれにならって慶長九年(1604年)に諸街道に一里塚を築くことと決め、江戸日本橋を道程の測りはじめと定めたそうです。

なるほど、現在のキロポストにあたる一里塚は、藤原氏が形をつくり、織田信長が距離を定め、徳川氏が多くの街道に築いたのですね。

道祖神

国府本郷の一里塚のすぐ先の国道1号線との間の歩道に道祖神があります。

こちらには小さな石塔が集められており、花が手向けられていました。今でも地域の方に愛されているようです。

男女双体道祖神

そのすぐ先には男女双体道祖神があり、となりには地神社や小さな石塔が集められています。

旧東海道の道端に多くある道祖神は、今もむかしも行き交う旅人を見守ってくれています。

しばらく国道1号線と並走していた旧東海道ですが、この交差点で合流します。

六社相模國石

その国道1号線との合流地点に石が散乱・・・ではなく、これは寒川神社、川勾神社、比々多神社、前島神社、平塚八幡宮、六所神社を模した石で、六石相模國石と呼ばれている場所とのこと。

現在は国道1号線になっている旧東海道はご覧の雰囲気になります。

すると突然右手に大きな赤鳥居が現れました。

六所神社鳥居

こちらは六所神社の鳥居になります。

道祖神

赤鳥居の先、国府新宿福祉館の敷地内に、またも道祖神があったのですが、

その前に新設されたであろう小さなお稲荷さんがあり、道祖神が可哀想・・・。

少し歩くと二宮町に入るのですが、その前にこちらのえびすさんで昼食を、と思い入ったのですが、人気店で行列で時間が掛かりそう。

ということで、数軒となりにある夢庵で後半に向けて栄養補給を完了。

この後はほろ酔い気分で軽快に足を進めます。

塩海の名残り

その後名残りの松があり、その先に葛川に架かる塩海橋を渡るのですが、

その袂にあるのが塩海の名残り碑。

この辺りの二宮村は海に面しており、古くから海水による塩の精製が盛んだったそうです。

渦巻き型の階段が珍しい二宮交差点の歩道橋を登り、

上から南を望みます。

正面に見えるのが西湘バイパスの西湘二宮インターチェンジで、その向こう側が袖ヶ浦になります。

守宮神社

その先のこちらの鳥居は守宮神社。

祭神は大国主命で、江戸時代の古地図には宿神社と記載されていて、地元ではしゅくじんさんと呼ばれているそうです。

こちらは二宮町のマンホール。

マニアが多いマンホールですが、私は興味がないものの、『MY TOWN NINOMIYA』と書かれたポップなロゴが気に入って撮ってみました。

そして少し歩くと吾妻神社入口の交差点があるので、そこを斜め右に入るのが旧東海道。

吾妻神社鳥居

その交差点にあるのが吾妻神社の鳥居。

吾妻神社はここ梅沢地域の氏神様で、縁結びの神様として信仰されているそうです。

ヤマニ醤油蔵元

吾妻神社鳥居のとなりにあったのが、ヤマニ醤油蔵元。

ヤマニ醤油は百七十年以上の歴史を持つ老舗醤油醸造所で、二宮の特産品の一つとして知られています。

旧東海道はその先で左に弧を描き、

坂を登ります。

この辺りの多くの家には石造の壁面があり、歴史の深さを感じることのできる道でした。

等覺院

坂の途中にあったのが等覺院です。

境内にあるこのフジは樹齢約四百年の大樹で、元和九年(1623年)徳川三代将軍家光上洛のおりに、ここに駕を止めてフジの花をめでたそうです。

徳川家光と同じフジを見ることができるなんて不思議。

ところで、フジってそんなに長寿なの??

そして旧東海道は国道1号線とふたたび合流しますが、その合流地点が次の目的地です。

石仏石塔群

こちらは石仏石塔が並ぶ道祖神。

天神社碑などもあり、なかなか賑やかな道祖神でした。

そして押切坂上の交差点で、旧東海道は左に逸れるのですが、そこが次の目的地。

押切坂の一里塚

押切坂の一里塚。江戸日本橋から十八里(約72km)の地点になります。

大磯宿と小田原宿の中間地点に当たる押切坂の一里塚は、北側の塚は一丈二尺(約3.6m)で欅(けやき)が植えられ、南側の塚は高さ一丈(約3m)で上に榎(かえで)が植えられていたそうです。

また周囲には茶屋や商店が軒を並べ、梅沢の立場と呼ばれ、旅人で大変に賑わったといいます。

国道1号線から一本入った旧東海道はこんな雰囲気になりました。

松尾茶屋本陣跡

そしてこちらの緑色のお宅の場所が松尾茶屋本陣跡になります。

お宅の庭には碑と説明板がありました。

大磯宿と小田原宿は四里(16km)と長い上、押切坂や酒匂川が控えていることから間の宿として梅沢の立場があり、大いに賑わったそうです。

その中心がこの松尾本陣で、参勤交代の諸大名や宮家、幕府役人などの特権階級にあたる人たちの休憩所に指定されていました。

こちら和田家には、本陣を利用した人々の記録である御休帳が保存されているそうです。

男女双体道祖神

その先には男女双体道祖神。

こちらは宝暦二年(1752年)造立だそうです。

道が斜めになっていることで傾いていて、できれば直してあげたい・・・。

旧東海道は道を下り、またも国道1号線に合流。

中村川に架かる押切橋を渡ると、

小田原市に入ってきました。

車坂

そして坂を登り頂点に差し掛かると、遠くに相模湾が見えてきました。

この辺りは車坂という古くからの景勝地で、坂を下って行った先には碑があり、となりの解説では太田道灌、源実朝、北林禅尼の歌が記されていました。

浅間神社

車坂の下り道の横には、宝永四年(1707年)の富士山噴火によって落下した火山岩が奉納されている浅間神社があります。

境内には幾体もの道祖神が祀られていて賑やかでした。

大山道道標

車坂を下った先に従是大山道と刻まれた大山道道標がありました。

ここは羽根尾通り入口、並びに秋葉山常夜燈と道祖神もありましたが、縦並びが勿体無い。

かつては東海道と並行してあったが、道路を開通させるためにこのような並びになったのかな。

道祖神

その先には道祖神が続きます。

まず大山道道標の先には男女双体道祖神と坂下道祖神。

そこから300mほど先にの中宿公民館の敷地内には男女双体道祖神。

その500mほど先には、よだれかけの男女双体道祖神がありました。

何度も書きますが、旧東海道を歩くと道祖神にほっこり安心感をもらいます。きっと江戸時代の旅人も同じ気持ちだったはず。

その先の国府津駅でお手洗いをお借りします。コンビニや公的施設が多い都会では気になりませんでしたが、田舎を歩いているとなかなかお手洗いがないのが難点。

まあ、男ですからいざとなったら何とかなりますが、旧東海道踏破をする女性の方はトイレチェックは必須かも。

親鸞聖人御庵室御勤堂碑

国府津駅の先にあるのが親鸞聖人御庵室御勤堂碑。

親鸞聖人とは平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した浄土真宗の宗祖で、親鸞聖人はここに草庵を結び、七年間布教に努めたそうです。

真楽寺

親鸞聖人御庵室御勤堂碑の100mほど西に行った場所にあるのが真楽寺。

元は天台宗でしたが、親鸞聖人の教化により浄土真宗に改宗したとのことです。

その後旧東海道は森戸川に架かる親木橋を渡ります。時刻は16時になり、太陽は遠く箱根の山にまもなく沈んでしまいます。先を急がねば・・・。

右に目をやると夕陽に照らされる富士山が見えました。

小八幡の一里塚跡

親木橋から500mほど歩いた場所にあったのが、小八幡の一里塚。江戸日本橋から十九番目(約76km)の一里塚になります。

小八幡の一里塚は天保年中の相模国風土記稿に、『東海道中の東にあり、左右相対せり、高二間、舗六七間、塚上に松樹あり上は小田原入口一里、下は淘綾郡山西村小名梅沢の一里塚に続けり』とあったそうです。

要するに、相対する塚は、高さが約3.6mで長さが約12mあり、塚の上には松の木があったそうです。

その後、東海道らしい立派な名残り松を見ながら歩いていると、

私の住む静岡まで100kmの看板。

目的地は京三条大橋ですが、我が家までの節目の距離を示す道路標識を見ると嬉しくなります。

旧川辺本陣跡

こちらは鎌倉街道の酒匂宿の本陣、旧川辺本陣があった場所。現在はゆりかご園という地域育児センターになっていましたが、江戸時代後期に建てられた建物が大切に保管されていました。

江戸時代の建物は威厳があって良いですねえ。実に綺麗に残されていますが、本当に当時物?

酒匂不動尊

旧川辺本陣跡の筋向いにあるのが酒匂不動尊です。

成田山末寺で、本尊は成田山不動明王坐像。長寿に御利益があるそうです。

酒匂川の渡し碑

酒匂川の袂には酒匂川の渡し碑がありました。

説明によると、酒匂川は東海道五十三次中の難所の一つで、船渡しが行われていましたが、延宝二年(1669年)に船渡しが禁止されると、夏は川越人足に夜徒歩渡し、冬は仮橋が架けられ往来したそうです。

11月ということでまだ冬と呼ぶには早いのですが、橋を使って酒匂川を渡ります。

陽が暮れて周囲は次第に暗くなっていきます。

酒匂川を渡り切ると辺りは夕闇に。先ほど渡った酒匂橋は酒匂の渡しの南側なので、この場所を右折して旧東海道に戻ります。

おいおい、暗いぞ、細いぞ、狭いぞ、この道でいいのかい? と思いながら進むも、

この丁字路を右折して無事旧東海道に復帰します。

すぐに道は左に曲がり、

このガソリンスタンドの交差点を左折し、

先ほど酒匂川を渡ってきた国道1号線と交差するので、ここを直進します。

すると変則の交差点があるので右に直角方向に曲がります。

曲がった先はこんな街道。

そしてここで国道1号線と合流します。

まあ、酒匂川から国1を真っ直ぐにくればいいだけの話なのですが、旧東海道を限りなく忠実に歩くのが今回の旅の目的なので、かなり遠回りをしております・・・。

なお、空が明るく見えますが、カメラのISOを思いっきり上げて、開放F値でスローシャッターで撮っているからで、実際にはかなり暗いです。

こちらが復帰した国道1号線です。

ここで悲しいお知らせを。

今回の旅は先ほど書いた通り旧東海道を可能な限り忠実に歩くとともに、ライカM11で撮ることを目的としています。

しかし、この日はすでに五里(約20Km)を歩き疲れている状況の中、手ぶれ補正を搭載しないM型ライカを使い真っ暗な状況でスローシャッターで集中して撮影するのは無理。

いうことで、iPhone16Pro MAXでの撮影に切り替えます。

えっ?どうでもいい??

すみません、みなさんに共感いただけないであろう、どうでもいいこだわりです。

山王橋を渡ると、

次の目的地に到着。

iPhone16Pro MAXの内蔵カメラで撮影しましたが、軽くてオートフォーカスも効くしブレない。メッチャ楽です。

色もいいって?

いや、それだけは言わないでください・・・。

山王神社

こちらは山王神社。

元々は南方の沿岸部に鎮座していましたが、波により社殿が破壊されたため、慶長十八年(1613年)にここへ遷座したそうです。

小田原に着陣した家康は、ここで戦勝を祈願しました。

宗福寺

山王神社のとなりにあるのが宗福寺。

1590年の小田原攻めの際に、豊臣秀吉が山中城で戦死した人々を追悼するために創建されたお寺で、その後、家康は日々参詣したそうです。

江戸口見附跡ならび小田原の一里塚

この浜町の歩道橋の場所が、江戸口見附跡(山王口)と小田原の一里塚(山王原の一里塚)が横並びであった場所。

江戸日本橋から二十里(約80km)も歩いてきました。

その歩道橋の上から見た現在の小田原宿。

うーん、夜はライカM11よりもiPhone16Pro MAXの方が綺麗かも・・・(禁句だった)。

歩道橋の脇には柵で囲まれた場所があり、江戸口見附跡と小田原の一里塚の説明書きがあり、

中央には石碑がありました。

本日は朝から四里(約17km)の長い道のりを歩いてきましたが、ようやく小田原宿の入口に到着。目的地まではあとわずかです。

その先の新宿交差点で左折し国道1号線と別れます。

そして一本目のこの角を右折し、

小田原名物の老舗かまぼこ店が軒を連ねるかまぼこ通りに合流します。

古清水脇本陣跡

しばらく歩くと左手にあるのが小田原脇本陣古清水旅館の看板。この場所に古清水脇本陣がありました。

この建物の二階に資料館があるようですが、もうクタクタなので今回は通過します。

清水金左衛門本陣跡

そして古清水脇本陣のとなりにあったのが、小田原宿の四軒あった本陣の一つ、清水金左衛門本陣です。

清水金左衛門本陣は明治維新後に明治天皇が宿泊。それを記念して石碑が建てられています。

旧網問屋(現なりわい交流館)

清水金左衛門本陣のとなりにあったのが網問屋で、現在は小田原宿なりわい交流館として市民や観光客の集いの場になっています。

交流館の前の柳の木が何ともいい雰囲気を醸していました。

旅の記録

小田原宿の中心だった旧網問屋の前の本町交差点で、本日の行程は終了。

では、いつものようにiPhoneのフィットネスアプリで、今回の旅の記録を見てみます。

まずは地図から。大磯宿がある大磯町から二宮町を経由して小田原市の小田原宿まで、西南西の方向に歩きました。

海沿いの道だったため、車坂など途中に見える相模湾の景色がきれいだったです。

続いては旅の詳細です。

大磯宿を出発したのが11時13分で、小田原宿到着がほぼ18時ということで、途中昼食の時間を除いても6時間以上、20kmの道のりを歩きました。

この日前半の平塚宿から大磯宿までを加えると、一日で六里(24km以上)を踏破し、かなりキツかった。一日十里(約40Km)は歩いたという江戸時代の旅人に比べたら少ないですが、個人的にはよく歩いたと思います。

さて、次回は東海道五十三次の前半のハイライト、箱根越えになります。

旧東海道を再現したという、足元の不安定な石畳みを踏みしめながら、長く険しい登り坂に挑戦しますので、興味のある方は次回もご覧ください。

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サーキットは非日常を味わえる特別な空間です。そんな素晴らしいモータースポーツの世界を、ひとりでも多くの方に伝えたい・・・。そんな思いでMOTORSPORT観戦記と題し、記事に認めました。




1件のコメント

松並木も風情があっていいし、歴史的に興味をそそられるところもたくさんありますね。カメラへのこだわり、判るような気がします。私も最近その拘りが揺らいできています。スマホの性能を考えるとカメラ(それほどいいカメラではないのですが愛着がある)に拘る意味が・・・です。☺️

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ABOUT US
大福
モータースポーツをこよなく愛す、セナプロ世代の四十代。 サーキット観戦デビューは、1996年フォーミュラニッポン第7戦の富士スピードウェイ。ど迫力のエキゾーストノートとタイヤの焼ける匂いを実感し、それまでテレビでしか観戦してこなかった事を悔やむ。以降、F1・WEC・スーパーGT・スーパーフォーミュラなどを富士スピードウェイ・鈴鹿サーキットを中心に多数観戦する。