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日本トップフォーミュラに参戦した14人のF1優勝ドライバー

ジャン・アレジ

2018年F1日本GPにて
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F1優勝回数:1

日本トップフォーミュラ参戦

  • 1989年全日本F3000選手権 第1戦 第2戦(スポットエントリー)

次は日本でもおなじみ、1995年のカナダグランプリで優勝したジャン・アレジ選手です。

アレジ選手は1989年のフランスグランプリでティレルからF1デビューを果たし、デビューレースで4位に入賞しましたが、その直前、1989年の全日本F3000選手権開幕戦にエントリーしました。

結局、開幕戦の鈴鹿と第2戦の富士戦の2レースに出場しましたが、残念ながらともにリタイヤに終わりました。

アレジ選手はその後、日本の女優である後藤久美子さんと結婚して2男1女の3人の子供に恵まれ、長男のジュリアーノは現在日本のトップフォーミュラであるスーパーフォーミュラにシリーズエントリーしています。

日本とゆかりの深いアレジ選手の日本との関わりは1989年から始まったのですね。

ジョニー・ハーバート

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F1優勝回数:3

日本トップフォーミュラ参戦

  • 1990年全日本F3000選手権(シーズンエントリー)
  • 1991年全日本F3000選手権(シーズンエントリー)

これまでのF1優勝ドライバーの日本トップフォーミュラへのエントリーはスポット参戦でしたが、後にF1で3度の優勝を果たすことになるジョニー・ハーバート選手は、初のシリーズエントリーをしたドライバーです。

1989年にベネトンでF1デビューしたハーバート選手でしたが前年に負傷した足の影響で結果を残せず、シーズン途中でベネトンを離脱。その後ティレルで2戦のみスポットで参戦した後、翌1990年から全日本F3000選手権にチームルマンからシリーズエントリーをします。

しかしこの年はローラが全盛の時代。レイナードを駆るハーバート選手は2度の入賞(5位と6位)でシリーズ16位に終わりました。

翌1991年もチームルマンでシリーズエントリーをしましたが、戦闘力の劣るラルトではローラ勢やレイナード勢に太刀打ちできず、それでもMINEサーキットで行われた第4戦では2位に入り、その才能を自ら証明しました。

エディ・アーバイン

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F1優勝回数:4

日本トップフォーミュラ参戦

  • 1991年全日本F3000選手権(シーズンエントリー)
  • 1992年全日本F3000選手権(シーズンエントリー)
  • 1993年全日本F3000選手権(シーズンエントリー)

F1で優勝したドライバーの中でもっとも日本のトップフォーミュラに参戦したドライバーは、その後フェラーリでチャンピオン争いをすることになるエディ・アーバイン選手です。

アーバイン選手は1991年にセルモから全日本F3000選手権にシリーズエントリーし、MINEサーキットで行われた第4戦で初優勝。翌1992年のMINEでも優勝を遂げています。

全日本F3000選手権では星野一義選手と熾烈なチャンピオン争いを演じ、シリーズポイントでは1ポイント上回るも有効ポイントで同点となり、優勝回数の差でチャンピオンを逃しました。

ちなみにF1で初優勝した1999年の開幕オーストラリアグランプリ後の会見で、

「日本には星野というバカッ速いドライバーがいてなかなか勝たせてもらえなかった」

「今ここにいられるのは星野のおかげだ」

と語り、同席していた2位のハインツ=ハラルド・フレンツェン選手と、3位のラルフ・シューマッハ選手も同意し頷いていました(後述=両者ともに日本トップフォーミュラ経験者)。

ミハエル・シューマッハ

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F1優勝回数:91

日本トップフォーミュラ参戦

  • 1991年全日本F3000選手権 第6戦(スポットエントリー)

言わずと知れたF1界の至宝ミハエル・シューマッハ選手も、日本トップフォーミュラにエントリーしたドライバーです。

ミハエル・シューマッハ選手が当時の日本トップフォーミュラの全日本F3000選手権にエントリーしたのは第6戦の菅生(現スポーツランドSUGO)戦で、所属したのはチームルマンでした。

シューマッハ選手はヨーロッパF3000選手権の経験がなく、この時が初のF3000マシンでの走行でさらに性能が劣るラルトでの出場でしたが、なんと予選で4位を獲得し、決勝では2位に入りました。

このレースでラジアルタイヤを初めて使用(当時F1以外の多くのカテゴリーではまだバイアスタイヤ)しましたが、後にF1でともに栄光を掴むことになる浜島裕英さんにタイヤの特性についての詳細を詳しく質問する彼の姿勢と、短いフリー走行でタイヤを使い切る才能に強い印象を受けたと語っています。

シューマッハ選手はその後も日本に残り、1992年シーズンも全日本F3000選手権にエントリーする予定でしたが、ジョーダンから急遽F1のデビューが決定。その後の活躍はみなさんご存知のとおりですね。

ハインツ=ハラルド・フレンツェン

フレンツェンのローラT93-50
2019年鈴鹿サウンドオブエンジンにて
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F1優勝回数:3

日本トップフォーミュラ参戦

  • 1992年全日本F3000選手権 第9戦 第10戦 第11戦
  • 1993年全日本F3000選手権(シーズンエントリー)

F1のウィリアムズやジョーダンで3勝を上げたハインツ=ハラルド・フレンツェン選手も、全日本F3000選手権にシリーズエントリーをしています。

フレンツェン選手は1992年の終盤3戦にノバエンジニアリングから参戦し、最終戦の富士戦では3位表彰台を獲得しました。

翌1993年は同チームからシリーズエントリーし、第3戦のMINEでは雨の中他のドライバーよりも5秒も速いタイムで独走(結果はリタイヤ)。結局このシーズンはポールポジション1回、表彰台1回、ファステストラップ3回を記録しましたが、優勝することはできませんでした。

ノバエンジニアリングに所属するF1解説でもおなじみの森脇基恭さんが指導をしたことでも有名なドライバーですね。

次のページではフォーミュラニッポンとスーパーフォーミュラで活躍したドライバーが登場します!

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大福
モータースポーツをこよなく愛す、セナプロ世代の四十代。 サーキット観戦デビューは、1996年フォーミュラニッポン第7戦の富士スピードウェイ。ど迫力のエキゾーストノートとタイヤの焼ける匂いを実感し、それまでテレビでしか観戦してこなかった事を悔やむ。以降、F1・WEC・スーパーGT・スーパーフォーミュラなどを富士スピードウェイ・鈴鹿サーキットを中心に多数観戦する。