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バブル期の日本で沸き起こったF1ブームを振り返る

日本企業のエンジン供給

前述のとおり、鈴鹿でF1を開催するきっかけとなったのがホンダのF1での活躍だった。

ホンダはアイルトン・セナやアラン・プロスト、ネルソン・ピケとともに5年連続してドライバーズタイトルを、そしてウィリアムズやマクラーレンとともに6年連続してコンストラクターズタイトルを獲得し、F1ブームを盛り上げた。

ホンダは1992年を最後にF1活動を終了するが、その後無限が引き継いでいる。

また1989年からはヤマハもブラバムにエンジンを供給し、その後はジョーダンやリジェ、ティレルと供給先を替えながら参戦した。

1990年にはスバルが1億円でコローニの株式の半分を買取り、スバルとモトーリモデルニが共同開発した水平対抗12気筒エンジンを搭載したが、これは失敗に終わっている。

そんな多くの日本メーカーがF1にエンジンを供給したのもこの時代だった。

ちなみに、スズキやいすゞもF1のレギュレーションでV型12気筒エンジンを製造し、いすゞはロータスに搭載してテストまで行っている。

日本企業が挙ってF1チームを買収

F1に参戦したのは自動車メーカーやエンジンメーカーだけでなく、他の業種の日本企業がF1チームを買収してF1に進出している。

その代表格がレイトンハウスだ。

レイトンハウスとは不動産会社の丸晶興産のブランドで、バブル期の日本で不動産が高騰していたことで、多くの資金でレーシングカーコンストラクターのマーチエンジニアリングと提携し、レイトンハウスマーチレーシングとして1987年にF1進出を果たした。

その後1989年にはマーチを買収し、1990年にはチーム名やコンストラクター名がレイトンハウスに改称し、若き頃のエイドリアン・ニューウェイとともにF1界を席巻した。

またそれに続き、エスポがラルースを、フットワークがアロウズを、ミドルブリッジがブラバムを買収し、日本企業の多くがF1チームのオーナーになったのもこの時代だった。

まとめ

ご覧いただいたように、バブル絶頂期の日本で起きたF1ブームは大きな社会現象となり、日本グランプリは地上波の、しかもゴールデンタイムに放送され、20%を超える視聴率を叩き出した。

しかしその後、アイルトン・セナの事故とそれに伴う古舘伊知郎のF1中継からの離脱、日本のバブル崩壊やホンダのF1撤退などが複合的に重なり、F1の人気は落ち着き、ブームは沈静化することになる。

そして話題作りのためだけにF1を視聴していた層は離れていったが、真のF1ファンだけはその後も残った。

先日、2000人のフォロワーのほぼすべてがモータースポーツファンという、私のツイッターアカウントで、こんなアンケートを行ってみた。

アンケートのとおり、ブーム期にF1に魅了された真のF1ファンは現代でも見続けており、F1ファンの中心として、今なお日本のF1を支えているのだ。

しかし彼らの多くは40代後半以上になり、これからまたF1の人気を盛り上げていくためには若い世代のファン獲得が急務となる。

そのためには日本人ドライバーの活躍が求まれる。

そう、角田裕毅の活躍が必要なのだ。

彼にはぜひ勝てるドライバーに成長してもらい、同世代のファンがF1に注目し、あらたなファン層になってもらいたいと切に願う。

願うはF1ブームの再来・・・だ。

以上、最後までご覧いただきありがとうございました。

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大福
モータースポーツをこよなく愛す、セナプロ世代の四十代。 サーキット観戦デビューは、1996年フォーミュラニッポン第7戦の富士スピードウェイ。ど迫力のエキゾーストノートとタイヤの焼ける匂いを実感し、それまでテレビでしか観戦してこなかった事を悔やむ。以降、F1・WEC・スーパーGT・スーパーフォーミュラなどを富士スピードウェイ・鈴鹿サーキットを中心に多数観戦する。