スーパーGTのチーム監督といえば、レーシングドライバー出身の方が多くいる。
中には類稀な成績を残したいわゆるレジェンドドライバーもいれば、歴史に残るほどの成績を残せずに、その自身の夢を後進に託すことを目的にチーム監督になった者もいる。
そこで今回は、レーシングドライバー出身のスーパーGT監督をピックアップし、彼らの現役時代の成績について調べてみた。
『日本トップフォーミュラ39勝』チームインパル 星野一義監督
- 日本トップフォーミュラ(全日本F2000/全日本F2/全日本F3000)シリーズチャンピオン 6回(1975,1977,1978,1987,1990,1993)
- 日本トップフォーミュラ(全日本F2000/全日本F2/全日本F3000/フォーミュラニッポン) 39勝
- 全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権シリーズチャンピオン 2回(1991,1992)
- 全日本ツーリングカー選手権シリーズチャンピオン 1回(1990)
- デイトナ24時間 優勝(1992)
- ル・マン24時間 3位(1998)
国内モータースポーツ随一の実績を誇るスーパーGTの監督といえば、チームインパルの『元祖日本一速い男』と言われた星野一義監督だろう。
1975年に当時の日本トップフォーミュラであった全日本F2000にフル参戦を開始すると、その年に早くもチャンピオンを獲得。
その後1977年(全日本F2000)と1978年(全日本F2)に2年連続でチャンピオンになり、早くも日本のトップドライバーを不動のものとする。
その後は中嶋悟選手の台頭により、5年連続してシリーズ2位と辛酸を舐めるが、中嶋選手がF1に進出すると1987年(全日本F3000)に4度目のチャンピオンになる。
晩年になってからも速さは衰えを知らず、F1ブームで国内レースも活況を呈していた1990年(全日本F3000)と1993年(全日本F3000)にもチャンピオンを獲得し、日本トップフォーミュラ通算6度のチャンピオンと39勝はともに日本最多の記録だ。
その他耐久レースでの成績も目覚ましく、1992年のデイトナ24時間で総合優勝。また1998年のル・マン24時間でも総合で表彰台に上がっている。
星野一義監督は、日本のモータースポーツを支えた第一人者として名声は後年に語り継がれるだろう。
『日本人初のF1フルタイムドライバー』ナカジマレーシング 中嶋悟監督
- 日本人初のフルタイムF1ドライバー
- F1参戦(1987-1991)
- 日本トップフォーミュラ(全日本F2)シリーズチャンピオン 5回(1981,1982,1984,1985,1986)
- 日本トップフォーミュラ(全日本F2) 21勝
星野一義監督の現役時代最大のライバルであったナカジマレーシングの中嶋悟監督もすごい実績の持ち主だ。
国内トップフォーミュラ時代は星野一義選手と激闘を演じ、参戦10年間で5度のチャンピオンを獲得。しかも1981年以降は6年間で5度のチャンピオン(すべて全日本F2)と、もはや国内には敵はいない状態だった。
その国内レースでの実績とホンダとの深い関わりで、中嶋悟選手は日本人初のフルタイムF1ドライバーとして、世界の舞台に打って出る。
F1デビューが34歳と非常に遅かったこともあり、ピークをすでに超えていたことや体力面での不安もあり、本来の力を発揮するまでには至らなかったが、体力面で負担の少ない雨のレースではその老練なテクニックを駆使して多くのファンを魅了し、1980年代後半から1990年代初頭のF1ブームを牽引した。
中嶋悟監督は星野一義監督とならび、日本モータースポーツ史を語る上で欠かせない選手として、今後も名声が語り継がれることになるだろう。
『日本人初のF1表彰台』ARTA 鈴木亜久里監督
- 日本人初のF1表彰台
- F1参戦(1988-1995)
- 日本トップフォーミュラ(全日本F3000)シリーズチャンピオン 1回(1988)
- 日本トップフォーミュラ(全日本F3000) 5勝
日本人ではじめてF1の表彰台に上がり、その後はチームオーナーとしてF1に上り詰めたのがARTAの鈴木亜久里監督だ。
1987年に当時の国内トップフォーミュラである全日本F3000に本格参戦すると、終盤の鈴鹿2連戦で連続優勝を果たし、いきなりチャンピオンシップで2位に入る。
そして翌1988年に見事チャンピオンに輝くと、その年の日本グランプリでF1にスポット参戦をする。
1989年に日本人2人目のフルタイムF1ドライバー(全戦予備予選不通過)になり、翌1990年の日本グランプリでは日本人初となるF1の表彰台を獲得した。
F1は1995年まで参戦し、その後は国内の全日本GT選手権やル・マン24時間などに参戦して2000年まで活躍した。
今回はチーム監督の現役時代の紹介ということで趣旨からは離れてしまうが、鈴木亜久里監督は2003年にフェルナンデスレーシングとの提携でインディレーシングリーグのオーナーに、そして2006年から2008年までは夢であったF1チームのオーナーになっている。
『F1/CART/インディカー参戦』ルーキーレーシング 高木虎之介監督
- F1参戦(1998-1999)
- CART参戦(2001-2002)
- インディカーシリーズ参戦(2003-2004)
- 日本トップフォーミュラ(フォーミュラニッポン)シリーズチャンピオン 1回(10戦8勝)(2000)
- 日本トップフォーミュラ(全日本F3000/フォーミュラニッポン) 14勝
- スーパーGT GT500シリーズチャンピオン 1回(2005)
- スーパーGT GT500 5勝
ルーキーレーシングの高木虎之介監督は、現役時代に国内はもとより、アメリカやヨーロッパでも活躍した素晴らしいレーシングドライバーだった。
前述の中嶋悟氏に見出され、1995年から国内トップフォーミュラに参戦すると、晩年の星野一義選手に「もうタイレルでもどこでもいいから向こう(F1)にやっちゃってよ」と言わせたほどに速かった。
1998年にティレルからF1にデビューすると、翌年はアロウズと2シーズンに渡り参戦したが、F1時代は速さは見せるもののチームに恵まれずに苦労した。
2000年は国内に戻り、フォーミュラニッポンでは10戦中8勝という圧倒的な強さでシリーズチャンピオンを獲得し、元F1ドライバーの実力を遺憾なく発揮した。
2001年からはアメリカに渡り、トップオープンホイールのCART、インディカーシリーズで4シーズン参戦し、表彰台も獲得した。
その後は国内に戻り、2005年からスーパーGTに参戦してその年にシリーズチャンピオンを獲得し、2008年を最後に現役を引退している。
『日本人初の世界GP優勝』チームクニミツ 高橋国光監督
- 日本人初の世界GP 優勝
- ル・マン24時間 クラス優勝(1995)
- 全日本耐久選手権シリーズチャンピオン 4回(1985,1986,1987,1989)
- 全日本GT選手権 3勝
チームクニミツの高橋国光監督は2輪4輪両方で活躍した選手だ。
1950年代に日本を代表するライダーになり、1960年からホンダワークスライダーとなり世界GPに参戦を開始し、1961年西ドイツグランプリ(2輪)の250ccクラスにおいて、日本人初となる世界GP優勝を果たす。
1964年に4輪に転向し日産のワークスチームに加入すると、伝説の箱スカ50勝の一役を担った。
1980年代には全日本耐久選手権(全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権)にて4度のシリーズチャンピオンを獲得し、1990年代にはル・マン24時間クラス優勝と長きにわたり現役で活躍した。
ドリフトを多用したドライビングが有名で、ドリキン土屋圭市氏に師匠的な扱いを受けている。
『ミスターGT』サード 脇阪寿一監督
- 日本トップフォーミュラ(フォーミュラニッポン) 5勝
- 全日本GT選手権/スーパーGT GT500シリーズチャンピオン 3回(2002,2006,2009)
- 全日本GT選手権/スーパーGT GT500 11勝
サードの脇阪寿一監督は特に全日本GT選手権/スーパーGTで活躍したドライバーで、そのGTでの功績から『ミスターGT』の異名を持つ。
1998年の第6戦、今は無きMINEサーキットでのレースで全日本GT選手権にデビューすると、翌1999年からフル参戦を開始する。
2002年にはあのESSOカラーのチームルマンのスープラでシリーズを初制覇すると、2006年にも今度はトムスでチャンピオンを獲得。そして2010年にはまたもトムスで3度目のチャンピオンを獲得した。
スーパーGTで通算11勝を挙げ、シリーズチャンピオンを3回も獲得した脇阪寿一監督は、このGTでの大変な活躍と軽妙なマイクパフォーマンスでTGRアンバサダーも務める。
全日本GT選手権/スーパーGTの大活躍に隠れて取り上げられることは少ないが、フォーミュラニッポンでも5勝を挙げている。
フォーミュラでの速さはあったが、スタートが大の苦手だったため、ローリングスタートの全日本GT選手権/スーパーGTの方が向いていたのか?
まだまだ登場、スーパーGT名物監督!
次のページでは、あの元F1ドライバーの現役時代の成績を紹介します!
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