服部尚貴
参戦 | 1991 |
所属チーム | コローニ |
出走 | 2(0スタート) |
決勝最高位 | – |
予選最高位 | – |
ファステストラップ | 0 |
通算ポイント | 0 |
フォーミュラニッポンや全日本GT選手権(スーパーGT)で活躍した、服部尚貴もF1に参戦したことがある。
1991年に弱小のコローニから終盤の日本グランプリとオーストラリアグランプリに参戦するも、マシンの競争力不足でともに予備予選不通過。
片山右京
参戦 | 1992-1997 |
所属チーム | ラルース ティレル ミナルディ |
出走 | 97(95スタート) |
決勝最高位 | 5位 |
予選最高位 | 5位 |
ファステストラップ | 0 |
通算ポイント | 5 |
1991年に全日本F3000のチャンピオンを獲得し、翌年ラルースからF1に参戦。
1993年にティレルに移籍すると、ハイライトは翌1994年ドイツグランプリ。
当時の日本人最高位となる予選5位を獲得し、スタートで2位にアップすると、3位をキープするもエンジントラブルで惜しくもリタイヤした。
日本人最多の97レースに参戦したが、1997年に「後進にシートを譲りたい」と惜しまれつつも引退した。
鈴木利男
参戦 | 1993 |
所属チーム | ラルース |
出走 | 2 |
決勝最高位 | 12位 |
予選最高位 | 23位 |
ファステストラップ | 0 |
通算ポイント | 0 |
国内レースのトップドライバーのひとりであった鈴木利男もF1に参戦している。
1993年にラルースからF1デビューし、日本グランプリとオーストラリアグランプリの2戦にスポット参戦し、2レースとも粘り強い走りで完走を果たした。
F1デビューは38歳と、かなりの遅咲きであった。
井上隆智穂
参戦 | 1994-1995 |
所属チーム | シムテック フットワーク |
出走 | 18 |
決勝最高位 | 8位 |
予選最高位 | 18位 |
ファステストラップ | 0 |
通算ポイント | 0 |
ジュニアフォーミュラ時代をヨーロッパで過ごした後、1990年から全日本F3に参戦するも目立った成績は残せなかった。
1994年にはふたたびヨーロッパへ渡り国際F3000に参戦するが、1度も入賞することはできなかった。
しかし日本企業のNOVAやユニマットなどのスポンサー資金を持ち込むカタチで、1994年の日本グランプリにスポット参戦を果たし、1995年にはフットワークに移籍してフルタイムF1ドライバーとなる。
ハイライトは1995年のハンガリーグランプリ。
エンジントラブルのためマシンを停車し、自ら消火器を持って消火作業をしようとした時、後方から来たレスキューカーに撥ねられ、その模様が国際映像に映ってしまった。
この出来事は今でもF1ファンの間で語り草となっており、2015年にF1公式サイトが企画した『ハンガリーグランプリ30周年、思い出に残る出来事30選』の4位にランクインした。
野田英樹
参戦 | 1994 |
所属チーム | ラルース |
出走 | 3 |
決勝最高位 | – |
予選最高位 | 23位 |
ファステストラップ | 0 |
通算ポイント | 0 |
日本期待の若手女性ドライバー野田樹潤の父親として知られる野田英樹も、F1への参戦経験がある。
1990年から1991年までイギリスF3に参戦した後、1992年から1994年の3年間は国際F3000へ参戦し、1994年に日本人で初めて表彰台を経験する。
するとその年の最後の3レースにラルースからF1に参戦するも、完走することはできなかった。
翌1995年はシムテックから全戦の契約を結ぶが、阪神淡路大震災の被害を受けたスポンサーが撤退したため、第6戦から参戦する契約を結ぶが、チームが第5戦で撤退してしまったため参戦には至らなかった。
中野信治
参戦 | 1997-1998 |
所属チーム | プロスト ミナルディ |
出走 | 33 |
決勝最高位 | 6位 |
予選最高位 | 12位 |
ファステストラップ | 0 |
通算ポイント | 2 |
現在は無限のチーム監督や鈴鹿サーキットレーシングスクールの副校長を務める中野信治も、かつてF1で活躍した。
1989年、18歳の時に渡英しフォーミュラボクソールで修行したのち、1992年から全日本F3や全日本F3000→フォーミュラニッポンに参戦しながら、童夢F1のテストも行なった。
そして1997年にプロストグランプリでF1にデビューし2回の6位入賞を果たし、ランキング18位に入った。
翌1998年は片山右京の抜けたミナルディに加入し、最終戦の日本グランプリを最後にF1を離れた。
高木虎之介
参戦 | 1998-1999 |
所属チーム | ティレル アロウズ |
出走 | 32 |
決勝最高位 | 7位 |
予選最高位 | 13位 |
ファステストラップ | 0 |
通算ポイント | 0 |
高木虎之介は、ジュニアフォーミュラからミドルフォーミュラまで一貫して日本でキャリアを積み上げていく。
1994年第8戦では星野一義をぶち抜いて優勝し、星野から中嶋監督に、
「もうタイレルでもどこでもいいから、向こう(F1)にやっちゃってよ」
と言われたほどの速いドライバーであった。
1997年はF1への参戦を見据えてF1のサポートレースであるポルシェカップにもフォーミュラニッポンと同時に参戦した。
そして1998年、ティレルからF1にデビューする。
しかしティレルはすでに後のBAR代表になるクレイグ・ポロック(BAR)が買収しており、ティレルは戦えるほどのマシンではなかったが、チームメイトのリカルド・ロセットよりも予選・決勝ともに上位に位置していた。
翌1999年はアロウズに移籍するが、このマシンも速さにも信頼性にも乏しく、入賞することはできなかった。
天性の速さを持っていた高木虎之介だったが、マシンに恵まれなかった2年間のF1活動だった。
ちなみにF1を離れた高木虎之介は、翌年からフォーミュラニッポンに復帰し、10戦8勝の途轍もない記録を打ち立て、自らの手であらためて速さを証明した。
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