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F1にエントリーした19人の日本人ドライバー

佐藤琢磨

2012年10月 WEC富士にて
参戦2002-2008
所属チームジョーダン
BAR
スーパーアグリ
出走92(90スタート)
決勝最高位3位
予選最高位2位
ファステストラップ0
算ポイント44

2020年、世界三大レースのひとつであるインディ500で、2度目の優勝を成し遂げた佐藤琢磨だが、彼もF1で活躍した日本人だった。

鈴鹿レーシングスクールを首席で卒業した佐藤琢磨は、1998年に全日本F3にデビューする。

しかし2戦に出場した後、シーズン中に渡英する。

ちなみにこの突然の渡英は、佐藤が運転免許取消処分を受けたためと言われているが、真相は定かではない。

イギリスではまずフォーミュラボクソールJr.に参戦し、2000年と2001年にイギリスF3に参戦し2001年には日本人で初めてイギリスF3のチャンピオンなり、各国のF3ドライバーが集うマルボロマスターズとマカオグランプリでも優勝する。

そしてホンダの後押しを受けて2002年にジョーダンホンダからF1にデビュー。

2003年にはジョーダンとホンダの提携が終了したことにより、リザーブ兼テストドライバーとしてホンダエンジンを搭載するBARに移籍し、最終戦の日本グランプリでジャック・ヴィルヌーヴに代わりスポットで参戦した。

2004年も引きつづきBARに所属し、ヨーロッパグランプリでは予選で2番手タイムを叩き出し、日本人初のフロントローからスタートした。

そして同年のアメリカグランプリでは、予選3番手から決勝でも力強い走りで3位表彰台を獲得。

2005年もBARに所属したが、前年とは打って変わって苦労のレースがつづく。

2006年には鈴木亜久里率いるスーパーアグリに移籍し、2002年のアロウズのマシンをベースにしたSA05やその後デビューしたSA06で苦戦を強いられた。

2007年には前年のホンダのマシンをベースにしたSA07で戦闘力が増し、上位チームのラルフ・シューマッハやフェルナンド・アロンソをぶち抜くシーンも見られた。

2008年もスーパーアグリに所属していたがシーズン途中でチームが撤退し、佐藤琢磨も余儀なくF1離脱をした。

その後はトロロッソなどと交渉も進められたが実現せず、2010年より現在に至るまでインディカーシリーズのトップドライバーのひとりとして活躍し、前述のとおり2017年と2020年にシリーズ最高峰のインディ500で日本人唯一の優勝を遂げている。

山本左近

2019年5月 スーパーGT第2戦にて
参戦2006-2007,2010
所属チームスーパーアグリ
スパイカー
HRT
出走21
決勝最高位12位
予選最高位21位
ファステストラップ0
算ポイント0

2019年に参議院選に立候補した山本左近も、F1で21レースに出走している。

2001年に全日本F3、2002年にドイツF3、2003年にユーロF3に参戦し、2004年にはふたたび全日本F3に参戦しシリーズ7位を記録する。

2005年にはフォーミュラニッポンに昇格し、2006年途中まで参戦した。

F1は2005年日本グランプリでフリー走行1回目に出場し、翌2006年にはシーズン途中スーパーアグリから参戦する。

2007年はF1の直下カテゴリーであるGP2に参戦したが、またもシーズン途中でスパイカーからF1に戻る。

その後はルノーのテストドライバーなどをしていたが、2010年にまたシーズン途中から今度はHRT(ヒスパニアレーシング)からシーズン終了まで参戦した。

井出有治

参戦2006
所属チームスーパーアグリ
出走4
決勝最高位13位
予選最高位21位
ファステストラップ0
算ポイント0

1994年に全日本F3に参戦するが、成績を残せずに一旦フォーミュラドリームに参戦しチャンピオンを獲得する。

2000年から2001年までふたたび全日本F3に参戦し、2002年にはフランスF3にエントリーする。

2003年から2005年まではフォーミュラニッポンに参戦し、最高位はシリーズ2位(2005年)。

そして2006年にこの年よりF1に参戦した新チームであるスーパーアグリのレースドライバーになる。

しかし初のF1参戦にも関わらず満足にテストも行えず、また、まともに走らないマシンで苦戦を強いられ、イモラでの第4戦でオープニングラップにアルバースと接触しアルバースを横転させてしまう。

それが原因して、FIAからスーパーライセンスを剥奪する旨の通告があり、シートをフランク・モンタニーに譲った。

中嶋一貴

2013年10月 WEC富士にて
参戦2007-2009
所属チームウィリアムズ
出走36
決勝最高位6位
予選最高位5位
ファステストラップ0
算ポイント9

前述の日本人初のフルタイムF1ドライバーで、日本で圧倒的な人気を誇った中嶋悟の長男である中嶋一貴。

しかし父の七光りと言われることを嫌い、ホンダ系ドライバーであった父とは違い、トヨタレーシングスクールのスカラシップを得て2003年にフォーミュラトヨタのシリーズチャンピオンになる。

2004年から2005年は全日本F3にステップアップし、シリーズ2位(2005年)に入り、翌2006年はF3ユーロシリーズへ参戦しシリーズ7位だった。

2007年にはF1直下のGP2に参戦し、44ポイントでシリーズ5位となり、ルーキーオブザイヤーを獲得した。

2007年は同時にウィリアムズの第3ドライバーとしてGP2と重ならないレースでは金曜フリー走行に出場し、最終戦ではレースドライバーのアレクサンダー・ヴルツの引退によりF1デビューが決定する。

翌2008年からは名門ウィリアムズのレギュラードライバーとして契約し、チームメイトの後にチャンピオンになるニコ・ロズベルグをたびたび上回り、9ポイントを稼いでシリーズ15位になった。

2009年もウィリアムズから参戦したが、最高位が9位でノーポイント(当時の入賞は8位以上)でシリーズ20位に終わり、この年を最後にF1を離れた。

その後は、新生WEC初年度の2012年より現在に至るまで最上位のLMP1クラスにトヨタから参戦している他、スーパーフォーミュラやスーパーGTなど国内のトップレースにも積極的に参戦している。

小林可夢偉

2015年11月 TGRFにて
参戦2009-2012,2014
所属チームトヨタ
ザウバー
ケータハム
出走76(75スタート)
決勝最高位3位
予選最高位2位
ファステストラップ1
算ポイント125

2002年最終戦でフォーミュラトヨタで4輪レースにデビューし、2004年にはフォーミュラルノー2.0イタリアシリーズに参戦。

2005年にはそのフォーミュラルノー2.0イタリアシリーズとともにユーロシリーズにも参戦し、両シリーズでチャンピオンを獲得する。

2006年はF3ユーロシリーズでランキング8位ながらルーキーカップを獲得し、2007年にはシリーズ4位に入った。

2008年と2009年はF1直下のGP2とGP2アジアシリーズにダブルエントリーし、GP2アジアシリーズでチャンピオンを獲得(2009年)した。

そして2009年第15戦日本グランプリで、レギュラードライバーの体調不良によりトヨタから金曜フリー走行に出場し、翌第16戦ブラジルグランプリでF1デビューを果たし、最終戦もエントリーした。

しかしシーズン終了後にトヨタのF1撤退が発表される。

トヨタのバックアップでF1までステップアップをしてきた小林可夢偉だったが、2010年はトヨタを離れザウバーと契約をした。

2010年は印象に残るオーバーテイクを幾多も見せた。

特に圧巻は第16戦日本グランプリで、抜きどころの少ない鈴鹿サーキットのヘアピンで5度のオーバーテイクを成功させ、地元で7位入賞を果たした。

2011年はエースドライバーとしてザウバーに残留し、日本人記録となる4戦連続入賞を含む9回の入賞で30ポイントを獲得して、前年同様シリーズ12位だった。

2012年も3年連続でザウバーより参戦。

第3戦の中国グランプリでは日本人として中嶋悟以来23年ぶりのファステストラップを記録(ザウバー※としてはチーム創設以来初)する。

※BMWザウバー含まず

そしてハイライトは第15戦の日本グランプリ。

予選3位からスタートした小林可夢偉は、レースでも安定した走りを見せ、日本人としては3人目の3位表彰台を獲得した。

その日本グランプリの活躍もあり、2012年は日本人最高の60ポイントを稼いだが、ランキングは3年連続で12位で、この年を最後にザウバーを離脱した。

2013年はロータスやフォースインディアと交渉したが実らず、WECのLMGTE PROクラスでフェラーリのセミワークスであるAFコルセに所属して1年間戦った。

そして2014年にケータハムと契約をして、多くのレースでチームメイトのマーカス・エリクソンより上位で戦ったが、この年を最後にF1を退いた。

その後はWECのLMP1クラスに2016年からトヨタで参戦するのを中心に、スーパーフォーミュラやスーパーGT、スポットでフォーミュラEやデイトナ24時間など、現在も日本を代表するドライバーとして精力的にレース活動を行なっている。

最後に

今回はF1にエントリーした19人の日本人ドライバーを、早い年度から順番に紹介してみたが、2014年の小林可夢偉のF1撤退以来、長らくエントリーしたドライバーはいない。

それにはヨーロッパのレースを中心としたスーパーライセンスポイントの設定が足かせになっているのは言うまでもなく、日本国内でレースをするのではなく積極的に海外進出をしなくてはならない。

実際に今回は簡単な来歴を載せているが、1990年代前半までにF1デビューをした日本人ドライバーの多くは日本国内を主軸に戦ってからのF1進出が多かったが、2000年代に入ると佐藤琢磨や中嶋一貴、小林可夢偉など、F1である程度の実績を残したドライバーはヨーロッパのレースからF1にデビューするケースが圧倒的に多い。

そんな中で現在F1直下のFIA-F2に2020年からデビューし、すでにレース1で勝利をあげている角田裕毅が楽しみでならないのだ。

彼は2020年にシリーズ4位以上になるとスーパーライセンスポイントで規定の40ポイントを上回り、F1への参戦が事実上可能になる。

彼はまたレッドブルカラーのマシンでFIA-F2に参戦していることからもわかるとおり、レッドブルジュニアチームの一員で、レッドブルグループのドライバー選定を一手に引き受けているヘルムート・マルコにも一目置かれているドライバーなのだ。

その角田裕毅は近い将来アルファタウリホンダからF1に参戦することになれば、小林可夢偉以来の日本人ドライバー誕生で、日本のF1人気もきっと再燃するのでは、と思う。

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大福
モータースポーツをこよなく愛す、セナプロ世代の四十代。 サーキット観戦デビューは、1996年フォーミュラニッポン第7戦の富士スピードウェイ。ど迫力のエキゾーストノートとタイヤの焼ける匂いを実感し、それまでテレビでしか観戦してこなかった事を悔やむ。以降、F1・WEC・スーパーGT・スーパーフォーミュラなどを富士スピードウェイ・鈴鹿サーキットを中心に多数観戦する。