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アジア初の常設サーキット『多摩川スピードウェイ』の歴史

自動車産業が盛んな我が国日本では、その技術を競うモータースポーツも古くから活気があり、鈴鹿サーキット(1962年開業)やその後に続いた富士スピードウェイ(1966年開業)など、世界を代表するサーキットが半世紀以上前の1960年代には完成していた。

しかし、鈴鹿サーキットや富士スピードウェイよりもずっとむかしに開業したサーキットがある。

そのサーキットのひとつが多摩川スピードウェイ。

モータースポーツファンでもその存在を知らない者も多い多摩川スピードウェイは、戦前の1936年(昭和11年)にアジア初の常設サーキットとして開業した、日本モータースポーツ黎明期を代表するサーキットだ。

本日(2021年11月30日)朝、いつものように日刊自動車新聞を読んでいると、多摩川スピードウェイの記事が目に入った。

東京都大田区と川崎市の境を流れる多摩川の丸子橋周辺は近隣住民の憩いの場になっている。堤防に腰かけ、本を読んだり、楽器の演奏をしたり、河川敷での野球の試合を眺めたり、それぞれが思い思いに過ごす◆その川崎市側にある階段状の堤防が、日本初の常設サーキット「多摩川スピードウェイ」の観客席だったことを知る人は地元住民の中にどれだけいるだろう。堤防強化のため、その取り壊し工事が今月始まった◆「日本の自動車レース史~多摩川スピードウェイを中心として」(杉浦孝彦著)によると、1936年6月に同サーキットで開催された「第1回全日本自動車競走大会」には3万人の観客が訪れた。ホンダ創業者の本田宗一郎氏も参加したというこのレース、日本の自動車産業の黎明期にあって会場の熱気はいかばかりだったか◆取り壊しの計画が判明したのは、着工3カ月前の今年7月。5年前、同サーキット開設80周年の記念プレートを川崎市に寄贈した「多摩川スピードウェイの会」は急きょ、保存運動を展開したが、計画が見直されることはなかった◆せめてもの救いは、記念プレートが埋め込まれた部分を含む3席分が堤防上端に移設されることだが、あまりにもささやかだ。治水事業とはいえ、貴重な産業遺構が姿を消すことは残念でならない。

日刊自動車新聞より抜粋

多摩川スピードウェイの忘れ形見として残されていたメインスタンドだが、今月(2021年11月)より取り壊しの工事を行なっているという。

モータースポーツファンのひとりとして一度は見てみたいと思っていたのだが、取り壊してしまうとは・・・残念でならない。

そこであらためて多摩川スピードウェイについて調べてみたので、今回はそのいにしえのサーキットについて少し書いてみたいと思う。

多摩川スピードウェイの場所

引用:国土地理院地図

上の写真は国土地理院が撮影した1936年から1942年の航空写真だ。

白黒なので少し分かりづらいが、左上から右下にかけて多摩川が流れており、右下にはその多摩川に丸子橋が架かる。

多摩川スピードウェイはその橋のすぐ上流の河川敷(+印の場所)に存在した。

ちなみに、左上にはその後巨人軍多摩川グラウンド(現:玉川緑地広場公式野球場)が整備される(昭和30年代)ことになる。

サーキットデータ

引用:国土地理院地図
  • 所在地:神奈川県川崎市中原区
  • オーナー:東京横浜電鉄(東急電鉄の前身の一つ)など
  • 運営:東京横浜電鉄
  • 開業:1936年5月9日
  • 営業期間:1936年-1950年代
  • 収容人数:3万人
  • コース長:1200m
  • 路面:未舗装(ダート)

レース開催実績

多摩川スピードウェイは1936年5月9日に開業し、その直後1936年6月7日には日本初の本格的な自動車レース『第1回全国自動車競争大会』が開催された。レースは3万人の観客を集めるほどの盛況ぶりだったという。

このレースには後にホンダを創業することになる本田宗一郎も、自ら浜松号のハンドルを握り参戦(結果は他車と接触し横転してリタイヤ)している。

その他フォードやブガッティ、ベントレーなどの外国車とともに、日産もワークス体制で参戦をしたが敗北し、優勝はオオタ自動車工業(後にくろがねブランドで有名な日本内燃機と合併)が組み上げたレース専用マシンのオオタ号だった。

その後も多摩川スピードウェイにて全国自動車競走大会は行われたが、日中戦争の激化とともに1938年の第4回大会を最後に終了した。

それ以後はオートバイによる草レースが行われたが、第二次世界大戦が勃発してレースは終了を余儀なくされる。

そして大戦終了後、オートバイの草レースが復活し、公営競技場として使用する計画が持ち上がり、1949年には日本小型自動車競争会(後のオートレースを統括するJKA)主催による戦後初の『全日本モーター・サイクル選手権』が開催された。

しかし、翌1950年に船橋オートレース場がオープンしたことなどもあり、この計画は頓挫し、1950年代初頭にサーキットは廃止されることとなる。

1952年に多摩川スピードウェイは野球場に転用され、東急フライヤーズ(現:北海道日本ハムファイターズ)の2軍グラウンドとして使用されることとなった。

現在の多摩川スピードウェイ跡地

多摩川スピードウェイの跡地は、現在も野球場として使用されており、その周囲はサイクリングコースが整備されている。

サーキットコースは最後まで舗装されずダートだったため、現在もコーナーの様子が野球場の隙間に残っている。

そしてメインスタンドは多摩川の土手にコンクリートで直接造られていたため、近年まで土手の一部として残されており、2016年5月には多摩川スピードウェイ開設80周年を受けて、それを記念するプレートがそのメインスタンド跡地に設置された。

しかし冒頭の日刊自動車新聞の記事のとおり、2021年11月より旧メインスタンドの取り壊しがはじまった。

最後に

先日富士スピードウェイで行われたスーパーGT最終戦に観戦に行ってきた。

そこには数万人という多くのモータースポーツファンが集い、日本で独自に発展したこのカテゴリーを愛し、贔屓のチームの旗を振り、声援を送っていた。

そんな日本モータースポーツのルーツを辿ると、行き着く先は多摩川スピードウェイなのだ。

2021年、日本モータースポーツの大きな歴史的遺産が消えてしまう。

その理由が堤防強化ということで、近年全国で頻発する豪雨水害を考えると致し方ないことだが、モータースポーツファンのひとりとして非常に残念でならない。

以上、最後までご覧いただきありがとうございました。

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大福
モータースポーツをこよなく愛す、セナプロ世代の四十代。 サーキット観戦デビューは、1996年フォーミュラニッポン第7戦の富士スピードウェイ。ど迫力のエキゾーストノートとタイヤの焼ける匂いを実感し、それまでテレビでしか観戦してこなかった事を悔やむ。以降、F1・WEC・スーパーGT・スーパーフォーミュラなどを富士スピードウェイ・鈴鹿サーキットを中心に多数観戦する。