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2000年代にF1を撤退した14のコンストラクター

2007年を最後にF1を撤退したコンストラクター

DATA
  • スパイカー(2007)

2007年はスパイカーがF1を撤退しました。

スパイカー(2007)

スパイカーは前項で紹介したMF1を買収して参戦したコンストラクターです。

オランダの高級スポーツカーメーカーのスパイカーカーズが母体のスパイカーは、2006年のシーズン中にMF1を10億6600万ドルで買収し、残りシーズンをスパイカーMF1というチーム名にして参戦しました。

そして翌2007年からコンストラクター名もスパイカーとして参戦。エンジンをMF1時代のトヨタからフェラーリに変更し、前年にMF1が使用していたマシン(基本設計はジョーダンの2004年マシンで3年落ち!)を改良して搭載。当然3年落ちのマシンでは戦闘力はなく、ほとんどのレースで最後尾を走行しました。

そんなスパイカーが唯一ポイントを上げたのが日本グランプリ。雨が降る富士スピードウェイで9位でフィニッシュした後、トロロッソのペナルティで繰り上がり、チームとしては唯一となる8位1ポイントを獲得しました。

初ポイントを獲得した日本グランプリの数日後インドの実業家ビジェイ・マリヤと元スパイカーCEOのミッシェル・モルが共同でスパイカーの買収を発表。スパイカーもMF1と同様に1年で名称を変更し、2008年からフォースインディアという名でF1にエントリーしました。

2008年を最後にF1を撤退したコンストラクター

DATA
  • ホンダ(1964-1968,2006-2008)
  • スーパーアグリ(2006-2008)

2008年を最後にF1を撤退したのは、ホンダとスーパーアグリの2つのコンストラクターでした。

ホンダ(1964-1968,2006-2008)

ホンダRA109(2008)
2019年ホンダコレクションホールにて

ホンダの第3期F1活動はエンジン供給から始まり、やがてフルコンストラクターとして参戦しましたが、2008年を最後に撤退をしています。

ホンダのフルコンストラクターとしての足跡を振り返ってみましょう。

ホンダのF1参戦は自動車メーカーとしてはかなり古く(といっても当時ホンダはまだ4輪車を発売していませんが)、1964年のシーズン途中にエントリーを開始。参戦2年目となる1965年の最終戦、メキシコグランプリで初勝利を挙げます。

ホンダ第1期のマシンたち
2019年ホンダコレクションホールにて

1967年には2勝目を記録し、翌1968年に初のポールポジションを獲得しますが、大気汚染に対する市販車用低公害型エンジンの開発を理由にF1活動の休止を発表しました。

その後ホンダ出資のスピリットとともに再度F1に参戦しますが、スピリットはあくまでホンダとは別のコンストラクター。その後も第2期F1活動はエンジン供給での参戦でした。

2000年から始まる第3期F1活動は当初フルコンストラクターとしての参戦を目指しますが、テクニカルディレクターを務めていたハーベイ・ポスルスウェイトの急死などがあり断念。シャシーの共同開発を行う契約で、BARにエンジンを供給するカタチでF1に復帰します。

その後B・A・R(2003年から名称変更)の項でも書いたとおり、BATが所有する残りの株式(全株式の55%)をホンダが譲り受け(この前の時点でホンダは既に45%を所持)、2006年からフルコンストラクターとして参戦します。

優勝したRA106(2006)
2019年ホンダコレクションホールにて

参戦初年度は2強のルノーとフェラーリ、そしてマクラーレンに遅れをとるも、雨のハンガリーグランプリでホンダF1にとっては3度目となる優勝を果たします。表彰式でのコンストラクターを讃える君が代の演奏は、当時ライブ中継で観戦していた私も思わず涙したのを覚えています。

この後もきっと優勝をしてくれるだろうと期待をしていましたが、栄冠はこの1度のみ。翌年はスポンサーロゴを排除したアースカラーで話題になりますが、成績はさっぱり。3度の入賞(当時は8位まで入賞)しか記録できず、失意のシーズンを送りました。

アースカラーのホンダRA108(2008)
2019年ホンダコレクションホールにて

翌2008年も同様に戦闘力は上がらず、選手権ランキングは9位まで低迷。この年は序盤で現行マシンの開発を早々と諦め、翌年から大幅に変わるレギュレーションに対応するためのマシン開発を早期に取り掛かります。

そんな折、2008年秋に起きたリーマンショックに端を発した金融危機による業績の悪化がホンダの母体にも直撃。ホンダは2008年12月にF1からの撤退を発表しました。

その後チームはロス・ブラウンに1ポンド(約147円)で売却。2009年にブラウンGPとして再出発をすることになります。

余談ですがホンダを引き継いだブラウンGPの2009年マシンは他を寄せ付けない速さを見せ、見事Wタイトルを獲得することに。ホンダが後1年F1活動を行っていれば輝かしい栄光が待っていただけに・・・この撤退が非常に悔やまれます。

スーパーアグリ(2006-2008)

ホンダの撤退もショックでしたが、このシーズン途中にスーパーアグリが撤退したことはホンダ以上にショックだったかもしれません。

それではスーパーアグリの参戦から撤退までの経緯を紹介します。

元F1ドライバーの鈴木亜久里さんはF1チームを持つ目標を立てており、ARTAプロジェクトを運営してF1進出を伺っていました。

2005年2月に鈴木亜久里さんはホンダに対してB・A・Rチーム株の一部を買収してホンダとの共同運営を持ちかけましたが破断。その後ホンダは鈴木亜久里さんに対してミナルディの買収話しを持ち上げられましたが、その提案も受け入れまられず、結局一からチームを設立する選択をします。

亜久里さんはラルース時代のコネを使い、かつてアロウズが使用していたリフィールドの工場を契約。さらにそのコネでアロウズ時代のスタッフも招集され、アロウズの最後のマシン、A23をベースとしてデビューマシンを製作することになりました。

そして2005年11月に亜久里さんがホンダ本社でF1参戦に向けての新規エントリー申請を済ませたことを発表し、スーパーアグリの存在が公に明らかになりました。

エントリー預託金の支払いに苦労したものの、サマンサタバサの助けであおぞら銀行から融資を取り付けFIAが承認。2006年2月10日の日経新聞には『亜久里ジャパン出陣』と銘打った全面広告を掲載し話題になりました。

チーム国籍は日本、ドライバーは佐藤琢磨選手と井手有治選手(後にF.モンタニー→山本左近選手)の日本人コンビ、エンジンは日本のホンダ、タイヤは日本のブリヂストン、そしてサマンサタバサやオートバックス、エネオスなど、多くの日本企業がバックアップし、まさにオールジャパンとしてデビューしました。

しかしデビュー年の2006年シーズンは2002年型アロウズA23がベース(なんと4年落ち!)なので厳しい戦いになり、ドイツグランプリから投入された新型マシンでも状況が改善されることはありませんでした。

参戦2年目となる2007年は飛躍の年でした。

ホンダの前年型マシンに類似したこの年のSA07は、開幕戦のオーストラリアグランプリでいきなりチーム初となるQ3進出を果たします。

第4戦のスペイングランプリでは、佐藤琢磨選手がトップチームのルノーを駆るジャンカルロ・フィジケラ選手をオーバーテイクして、チーム初のポイントを獲得(当時は8位以内が入賞)。

そして第6戦のカナダグランプリではタイヤ交換作戦が功を奏し、佐藤琢磨選手が前年のチャンピオン、フェルナンド・アロンソ選手をオーバーテイクしてチーム最高位の6位でフィニッシュ。日本のF1ファンの間では今でも語り草となっている素晴らしいレースでした。

結局このシーズンはコンストラクターズランキングではスパイカーを抑えて9位に入る(マクラーレンはスパイゲート事件で全ポイント剥奪)、大躍進の年でした。

そんな飛躍の年になった2007年ですが、チームの財政事情がさらに悪化したのもこの頃でした。

日本のある証券会社から香港のSSユナイテッドという自称石油商社を紹介され、メインスポンサーとして大々的にマシンにロゴを掲げるも、スポンサーフィーは一切支払われることはなく、逆にその証券会社から訴えられ16億7000万円の支払いを命じられます。

2008年に入り、厳しいながらも新マシンSA08Aで参戦を継続します。同時に亜久里代表はチーム存続のために奔走し、マグマグループなどに売却交渉を行うも決裂してしまいます。

ホンダの支援で第4戦のスペイングランプリに出走ができるも、その後ドイツの自動車パーツ企業と買収交渉が決裂し、このスペイングランプリを以てF1撤退を発表しました。

次のページでは、2009年にF1を撤退したコンストラクターを紹介します!

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大福
モータースポーツをこよなく愛す、セナプロ世代の四十代。 サーキット観戦デビューは、1996年フォーミュラニッポン第7戦の富士スピードウェイ。ど迫力のエキゾーストノートとタイヤの焼ける匂いを実感し、それまでテレビでしか観戦してこなかった事を悔やむ。以降、F1・WEC・スーパーGT・スーパーフォーミュラなどを富士スピードウェイ・鈴鹿サーキットを中心に多数観戦する。