2009年を最後にF1を撤退したコンストラクター
- トヨタ(2002-2009)
- BMWザウバー(2006-2009)
- ブラウンGP(2009)
2009年はトヨタとBMWザウバー、ブラウンGPが撤退しています。
トヨタ(2002-2009)
日本が誇るトヨタも2009年を最後にF1を撤退したコンストラクターです。撤退記者会見での山科チームの涙をいまだに忘れられないF1ファンも多くいるでしょう。
ではトヨタのF1活動の足跡を振り返ってみます。
1990年代、国際的なトヨタモータースポーツ活動の中心はル・マン24時間やスポーツカー世界選手権、WRCが中心でした。そんな中、1997年にヨーロッパにおけるブランドイメージ構築とシェア拡大、若年層へのアピールを目的としてF1への参戦が社内にて内定。そして1999年に正式に表明をします。
一般的には既に参戦しているコンストラクターを買収して参戦するのが定石ですが、トヨタはヨーロッパでのモータースポーツの拠点であるTMGを母体として、マシンからエンジンまですべてを自社で開発する道を選びます。
当初は2001年から参戦を予定していましたが、エンジンレギュレーションの変更(開発していた12気筒が禁止になった)などで準備が遅れ2002年シーズンから参戦することになりました。
初年度は開幕戦でいきなり入賞をするも結局2ポイントしか獲得できず、シーズン途中で撤退したアロウズを除くと最下位という結果に終わりました。
同じく2003年、2004年シーズンも結果を出すことができず、巨大企業でもすべてを自社開発する判断は無謀だったのでは、という声も上がりました。
転機となったのは2005年。2003年12月にテクニカルディレクターとして加入したマイク・ガスコインが中心のなり開発されたTF105は、第2戦のマレーシアグランプリでチームにとって初の表彰台(2位)に上がります。さらに第9戦のアメリカグランプリ(あのミシュランゲートの時)で初のポールポジションを獲得します。
結局このシーズンは2度のポールポジションと5度の表彰台を記録して、コンストラクターズランキングで4位(88ポイント)に入りました。
この調子で更なる飛躍を期待しましたが、2006年は変更したブリヂストンタイヤの性能を発揮できずに6位(35ポイント)。2007年は信頼性に欠け同じく選手権6位でしたが13ポイントしか獲得できず厳しいシーズンが続きます。
2008年は信頼性が上がり、コンスタントにポイントを積み重ね2度の表彰台もあり、5位まで持ち直します。
そしてマシンレギュレーションが大幅に変更された2009年。この年はブラウンGPのダブルディフューザー(マルチディフューザー)が話題になりましたが、トヨタTF109もこれを搭載しており、結果これがアドバンテージになり5度の表彰台を獲得しました。
しかしこの年の最終戦から3日後、トヨタは記者会見を行い、2009年を以てF1活動を終了することを発表しました。リーマンショックの影響でトヨタ本社が2009年3月期の決算で59年ぶりの赤字を計上したことが撤退の原因だった。
撤退の記者会見で山科代表が「一緒に苦労してきた仲間のことが頭をよぎるんです・・・」と涙を浮かべたのが印象的でした。
BMWザウバー(2006-2009)
この年を限りにBMWザウバーがF1を撤退しています。FIAの公式サイトではBMWザウバーとザウバーは同一チームとされていますが、今回はこのBMWザウバーについても紹介してみたいと思います。
BMWは1950年代に2戦だけF1参戦実績があります。その後1980年にエンジン供給というカタチでF1に復帰をするも1987年を以って終了。2000年にウィリアムズへと契約をしてエンジン供給を開始します。
BMWは2004年にウィリアムズの買収を画策するもオーナーのフランク・ウィリアムズが頑なに拒否。そこでザウバーを買収して(チーム名BMWザウバー)2006年からフルコンストラクターとしてF1に参戦します。
参戦初年度は2度の3位表彰台を獲得しランキング5位でシーズンを終えます。
翌2007年は高い信頼性を維持しながら全レースでポイントを着実に稼ぎ、マクラーレンがスパイゲート事件でコンストラクターズポイントを剥奪されたこともあり、ランキング2位に躍進。これはザウバー時代の成績を上回る快挙でした。
さらに2008年は第7戦のカナダグランプリでBMWザウバーにとって初優勝を遂げ、ロバート・クビサはドライバーズランキングで4位に入ります。
ここまで年を追うごとに成長してきたBMWザウバーですが、マシンレギュレーションが大きく変更された2009年は不振に陥ります。
そして7月に緊急記者会見が行われ、2009年限りでF1を撤退することを発表。理由は『リソースをドライブテクノロジーや持続性および環境適合性のプロジェクトに集中していく』としていましたが、前年で撤退したホンダ同様にリーマンショックの影響が少なからずあったものと推測します。
その後BMWザウバーの施設は紆余曲折あり、ザウバーの創始者であるペーター・ザウバーに売却され、F1チームとして存続しています。
ブラウンGP(2009)
前年ホンダを引き継ぎ、2009年にWチャンピオンを獲得したブラウンGPはこの年のシーズンホフにメルセデスに売却し、チームは1年限りで消滅しています。
ホンダの項で書いたとおり、2008年秋に起きたリーマンショックに端を発した金融危機による業績で2008年12月にF1から撤退したホンダ。これを引き継いだのがブラウンGPです。ちなみにブラウンGPの代表ロス・ブラウンはホンダから1ポンドで個人的に買い取ったとか・・・。
ホンダ時代から経営陣とドライバーを継続し、エンジンはメルセデスから供給を受けることが発表されたブラウンGP。マシンはホンダRA109として開発されていたものを継続して開発し、予定よりかなり遅い開幕3週間前になんとか完成します。
開幕前テストではトップタイムを連発し、『燃料を軽くしてスポンサー獲得のためのアピールをしている』と疑われます。
しかしその速さは本物で、デビュー戦となる開幕のオーストラリアグランプリでワンツーフィニッシュを達成します。さらにブラウンGPの快進撃は続き、開幕7戦で6勝を記録。
この圧倒的な速さはリヤのディフューザーを2段構造として多くのダウンフォースを稼ぐダブルディフューザーによるものが大きい。この機構は前年に撤退したスーパーアグリの空力設計者や撤退前のホンダの日本人エンジニアが考案したものと言われ、ロス・ブラウンも認めているらしいです。
そんなダブルディフューザーによるアドバンテージによって、2009年シーズンの前半戦を素晴らしい速さで圧勝したブラウンGPとエースのジェンソン・バトン選手でしたが、後半になると各チームがこのシステムをコピーしてレッドブルが猛追。
プライベートチームのブラウンGPは開発費が限られており劣勢に立たされるも、前半戦の蓄えでなんとか逃げ切り、ブラウンGPはデビューイヤーにしてドライバーズとコンストラクターズのWタイトルを獲得する快挙を達成しました。
そんな夢のようなシーズンを送ったブラウンGPでしたが、シーズン終了後にメルセデスとアブダビの企業による買収が発表され、翌シーズンからメルセデスGPとして参戦することになります。これによりブラウンGPはわずか1年で消滅することが決定しました。
ちなみにロス・ブラウンはホンダから1ポンドで譲り受けたこのチームを1億1千万ポンドで売却し、9850万ポンド(当時のレートで147億970万円)を得たといいます。1年で自分の名を冠したチームがF1でチャンピオンになり、さらに147億円も儲けるなんて・・・まさにF1ドリームですね!
まとめ
今回は2000年代にF1を撤退したコンストラクターをすべて紹介しましたが、まとめると以下の14のコンストラクターになります。
No. | コンストラクター名 | 初参戦 | 最終年 |
---|---|---|---|
1 | ベネトン | 1986 | 2001 |
2 | プロスト | 1997 | 2001 |
3 | アロウズ | 1978 | 2002 |
4 | ジャガー | 2000 | 2004 |
5 | ミナルディ | 1985 | 2005 |
6 | ジョーダン | 1991 | 2005 |
7 | BAR | 1999 | 2005 |
8 | MF1 | 2006 | 2006 |
9 | スパイカー | 2007 | 2007 |
10 | ホンダ | 1964 | 2008 |
11 | スーパーアグリ | 2006 | 2008 |
12 | トヨタ | 2002 | 2009 |
13 | BMWザウバー | 2006 | 2009 |
14 | ブラウンGP | 2009 | 2009 |
2000年代は特に自動車メーカー系コンストラクターが多く参戦した時代でしたが、ジャガー(フォード)、スパイカー、ホンダ、トヨタ、BMWと参戦した自動車メーカーはすべてF1を去って行きました。
また私たち日本のF1ファンの多くはオールジャパン体制のスーパーアグリの参戦に歓喜しましたが、彼らもまた夢破れて撤退を余儀なくされました。
いつかまたオールジャパンのチームが現れることを期待して・・・今回はこれにて終了といたします。
1990年代、2010年代にF1を撤退したコンストラクターについては下記の記事で紹介していますので、興味のある方はどうぞ。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。