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2000年代にF1を撤退した14のコンストラクター

2005年を最後にF1を撤退したコンストラクター

DATA
  • ミナルディ(1985-2005)
  • ジョーダン(1991-2005)
  • BAR(1999-2005)

2005年はミナルディとジョーダン、BARの3つのコンストラクターがこの年を最後にF1撤退を決めました。

ミナルディ(1985-2005)

ミナルディM191(1991)

F1関係者やファンに広く愛されたイタリアのミナルディは2005年を以てF1から去りました。

ヨーロッパF2に参戦していたミナルディがF1に進出したのは1985年。しかし競争力はなく初ポイントは1988年まで待たなければなりませんでした(当時の入賞は6位まで)。

ミナルディが注目されたのが1991年。ミナルディはF2時代から同じイタリアのフェラーリと良好な関係だったこともあり、このシーズンから門外不出と言われたフェラーリエンジンを獲得。

当時のフェラーリは暗黒期に突入する最中で、フェラーリエンジンを搭載しても不発でしたが、チームとしてはそれまでの最高位シリーズ7位に入りました(F1参戦を通じても最高位)。しかし高額なエンジン使用料だったため1年で決別。チームの財政事情はさらに悪化するのでした。

1994年には同じイタリアのスクーデリアイタリアと合併(コンストラクター名はミナルディ)しましたが、下位チームとしての地位は変わらず、毎シーズン財政問題から撤退の噂が絶えませんでした。

ミナルディPS01(2001)

2001年からはヨーロピアン航空を経営していたポール・ストッダートがチームを買収するも、依然テールエンダーのまま。結局ストッダートのヨーロピアン航空の経営難もあり、2005年のシーズン中にレッドブルへチームを売却。翌シーズンからトロロッソとして参戦するのでした。

340回も参戦しポールポジションや優勝はおろか、表彰台すらも獲得できなかったミナルディですが、モーターホームのパスタの味はチャンピオン級で、あのアイルトン・セナをはじめ多くの関係者が来店。そんなミナルディの撤退に多くの関係者が投げいだと言われています。

ジョーダン(1991-2005)

ジョーダンEJ12(2002)
2019年ホンダコレクションホールにて

1990年以降にF1に参戦を開始したコンストラクターの中ではもっとも成功を収めたジョーダンも、2005年を最後にF1を撤退しています。

国際F3000で成功をおさめていたジョーダンがF1に進出したのが1991年。元レイナードのゲイリー・アンダーソンがデザインしたジョーダンの処女作911は美しく、さらに空力的にもかなり洗練したマシンでした。このマシンに搭載された最新のフォードHBは強力で、高性能のマシンとエンジンの組み合わせで、初年度からコンストラクターズランキング5位を獲得します。

1992年から1993年にかけて低迷するも1994年にチーム初のポールポジションを獲得。信頼性には欠けましたがレースでも時に上位勢を脅かす走りを披露し、デビューイヤー以来のコンストラクターズ5位に入ります。

1996年にメインスポンサーのベンソン&ヘッジスを獲得し資金が安定すると、チームの成績は上向き調子に。そして1998年のベルギーグランプリでチーム初優勝を遂げます。

翌1999年にはチーム所属のハインツ=ハラルド・フレンツェン選手がシリーズ終盤までチャンピオン争いを演じるまで成績が向上。結局この年は2勝を挙げ、コンストラクターズ選手権でチーム史上最高位の3位になりました。

しかしその後は一転転落に・・・。

2001年のシーズン前にはエンジニアの大量離脱。この理由は定かではありませんが、チームオーナーのエディ・ジョーダンがケチで金払いが悪いと元スタッフが証言していることから、何らかの金銭的トラブルがあったのかもしれません。さらに2002年にはベンソン&ヘッジスの支援の大幅縮小やホンダエンジンの多額なリース料が影響して運営資金が不足。60人のスタッフを解雇します。

結局ジョーダンは資金が行き詰まり、2005年にロシアの大富豪率いるミッドランドグループに売却。1990年以降にデビューしたプライベーターの中ではもっとも成功をおさめたチームは、参戦14年で幕を閉じました。

B・A・R(1999-2005)

B・A・R006(2004)
2019年ホンダコレクションホールにて

佐藤琢磨選手も所属し、日本で愛されたBARは2005年シーズン終了後にF1を撤退しました。

BARの発足はジャック・ヴィルヌーヴ選手がアメリカのCART(かつて存在したチャンプカーシリーズ)でチャンピオンを獲得した1995年に始まります。ヴィルヌーヴのマネージャークレイグ・ポロックとマシンを供給していたレイナード、スポンサーのインペリアルタバコ(親会社がBAT)との間でF1チームを設立する意見が交わされました。

1997年にポロックがティレルを買収。BAT、ポロック、レイナードの3者が共同所有者になり、BATがメインスポンサー、ポロックがチーム代表、レイナードがシャシー設計を担当(コンストラクター名義はBAR)して1999年からBARという名称でF1に参戦します。

しかしF1マシンを初めて設計するレイナードと型落ちのスーパーテックエンジンでは戦闘力がなく、1997年チャンピオンのヴィルヌーヴ選手をもってしても結果が出ず、初年度はノーポイントに終わります。

2000年は第3期F1活動を開始したホンダとエンジン契約を結び参戦。ワークスエンジンを得て着実にポイントを積み重ね、選手権4位のベネトンと同ポイントの5位まで浮上。

2001年は第5戦スペイングランプリでチーム初の表彰台を獲得するも成績は低迷。その責任もあった代表のポロックが辞任し、翌2002年にはレイナードが倒産。BAR創業者のうち2者がチームを去りました。

2001年、2002年と低迷しましたが、2001年に加入したジェフ・ウィリス設計の2003年マシンは素性が良く、選手権5位に上がります。ちなみにこの年はチーム結成のきっかけを作り、参戦当初からエースとして所属したヴィルヌーヴ選手が日本グランプリ前にチームを去り、ホンダの後押しもあり佐藤琢磨選手が加入しました。

そして迎えた2004年。エースジェンソン・バトン選手が18戦中10戦で表彰台に上がり、ドライバーズランキング3位になり、第4戦サンマリノグランプリではチーム初となるポールポジションも獲得しました。また佐藤琢磨選手もアメリカグランプリで日本人2人目となる表彰台を獲得。あのレースは個人的にも本当に感動しました。結局チームはコンストラクターズランキングで2位まで浮上し、参戦したすべてのシーズンでもっとも成功した年になりました。

ただ当時はフェラーリの最大の黄金期だったことで、優勝をすることができなかったのが悔やまれます。

2005年は前年の成功から一転、マシンの戦闘力が思いのほか上がらなく、さらに規定違反でポイント剥奪や出場停止処分があったことも影響し、平凡な成績に終わります。

そしてBATは2007年から始まるタバコ広告規制を考慮し、BATが保有する全株式55%をすべてホンダに売却。2006年からホンダはフルコンストラクターとして参戦することが発表され、B・A・R(2003年BARからB・A・Rに変更)の7年のF1活動は終了しました。

2006年を最後にF1を撤退したコンストラクター

DATA
  • MF1(2006)

2006年はMF1が撤退しました。

MF1(2006)

MF1と聞いて覚えているF1ファンはあまり多くないかもしれません。MF1とはミッドランドF1の略称で、コンストラクターならびにチーム名称の登録はMF1でした。

2005年にジョーダンを買収したMF1ですが、この年はコンストラクター登録期限の影響でジョーダン名義で参戦。そして2006年から正式にMF1として参戦しますが、基本設計がジョーダン時代の2004年マシン(2年落ち)で、戦闘力もなく低迷します。

さらにオーナーのアレックス・シュナイダーもチーム経営に意欲を失い、わずか1年でスパイカーに売却し、MF1としてのF1参戦は1年で終了しました。

次のページでは、2007年以降にF1を撤退したコンストラクターを紹介します!

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大福
モータースポーツをこよなく愛す、セナプロ世代の四十代。 サーキット観戦デビューは、1996年フォーミュラニッポン第7戦の富士スピードウェイ。ど迫力のエキゾーストノートとタイヤの焼ける匂いを実感し、それまでテレビでしか観戦してこなかった事を悔やむ。以降、F1・WEC・スーパーGT・スーパーフォーミュラなどを富士スピードウェイ・鈴鹿サーキットを中心に多数観戦する。