モータースポーツの最高峰であるF1グランプリ。
そのF1にエントリーした日本人ドライバーは、予選で脱落して決勝に参戦できなかったドライバーも含めると全部で19人いる。
そこで今回は、F1にエントリーした19人の日本人ドライバーを、参戦年度の早い順に簡単な経歴とともに紹介したいと思う。
鮒子田寛
参戦 | 1975 |
所属チーム | マキ |
出走 | 2(0スタート) |
決勝最高位 | – |
予選最高位 | 25位 |
ファステストラップ | 0 |
通算ポイント | 0 |
1965年にホンダの契約ドライバーとしてレースに参加後、1966年から若干20歳でトヨタの一軍チーム『チームトヨタ』に加入して1600GTや2000GTで耐久レースを中心に活躍し、1968年以降はトヨタ7を駆り日本グランプリや日本Can-Amなどのレースに出場し優勝などの好成績を収める。
1970年にトヨタのワークスドライバーを脱退後、アメリカに渡りフォーミュラレースに出場し、1972年には日本に戻りグラチャンでシリーズチャンピオンになる。
そして1975年、イギリスグランプリに国産マシンのマキで日本人として初めてF1にエントリーするが予選落ちする。
その後同年のオランダグランプリにもエントリーするがこのレースでも予選を通ることができなかった。
その後は1975年にオーストラリア最大のレースであるバサースト1000kmに出場しクラス優勝を遂げ、1981年シーズンでレーシングドライバーを引退した。
星野一義
参戦 | 1976-1977 |
所属チーム | ティレル コジマ |
出走 | 2 |
決勝最高位 | 11位 |
予選最高位 | 11位 |
ファステストラップ | 0 |
通算ポイント | 0 |
日産のワークスドライバーとして数々の国内レースで勝利をあげた『元祖日本一速い男』で、現在はチームインパルの監督を務める。
1976年、富士スピードウェイで行われたF1にヒーローズから旧型ティレルでスポットエントリーし、雨の中一時3位を走行する健闘を見せるが、ホイールの予備がなくリタイヤをする。
翌1977年もF1日本グランプリにスポット参戦し、国産マシンのコジマで11位完走を果たした。
高原敬武
参戦 | 1976-1977 |
所属チーム | サーティース コジマ |
出走 | 2 |
決勝最高位 | 9位 |
予選最高位 | 19位 |
ファステストラップ | 0 |
通算ポイント | 0 |
1970年代に活躍したドライバーで、星野一義が台頭するまで国内のトップドライバーであった。
F1には、1974年に非選手権ながら日本人として初めてエントリーし、11位完走をする。
そして1976年にF1選手権インジャパンにサーティースからスポット参戦し、翌1977年の日本グランプリにもコジマからスポットで参戦した。
長谷見昌弘
参戦 | 1976 |
所属チーム | コジマ |
出走 | 1 |
決勝最高位 | 11位 |
予選最高位 | 10位 |
ファステストラップ | 0 |
通算ポイント | 0 |
日産ワークスとして活躍したトップドライバー。
1976年のF1選手権インジャパンに国産マシンであるコジマでスポット参戦し、予選1回目で4位になりレギュラーチームを驚かせるが、予選2回目でサスペンショントラブルから最終コーナーでクラッシュを喫してしまう。
マシンはほぼ全損の状態であったが、チームスタッフだけでなく他チームもボランティアで修復にあたり決勝に出場を果たし、11位で完走をした。
余談だが、修復を行った近藤レーシングガレージは、富士スピードウェイ西ゲートのすぐ横に今も見ることができる。
高橋国光
参戦 | 1977 |
所属チーム | ティレル |
出走 | 1 |
決勝最高位 | 9位 |
予選最高位 | 22位 |
ファステストラップ | 0 |
通算ポイント | 0 |
2輪時代にはホンダのワークスライダーとしてWGP(現MotoGP)に日本人として初めて参戦し、125ccクラスで日本人初優勝した。
4輪レースに転向後は日産ワークスチームで活躍しマシンをドリフトさせながらの走りに、若き土屋圭市は憧れた。
F1には1977年日本グランプリに旧型のティレルを購入してスポットで参戦し、予選22位から9位完走をした。
中嶋悟
参戦 | 1987-1991 |
所属チーム | ロータス ティレル |
出走 | 80(74スタート) |
決勝最高位 | 4位 |
予選最高位 | 6位 |
ファステストラップ | 1 |
通算ポイント | 16 |
言わずと知れた日本人初のフルタイムF1ドライバー。
現在は、F2やGP2などのヨーロッパのレースで経験を積みF1にデビューするが、中嶋悟は国内を中心に活躍し、日本のトップフォーミュラでは6シーズンで5度のチャンピオンを獲得する、まさに敵なしの状況だった。
常にF1への参戦を目標としており、その夢が叶ったのが1987年で、34歳とかなり遅いデビューであった。
所属チームは名門と呼ばれたロータスとティレルで、チームメイトはアイルトン・セナやネルソン・ピケ、ジャン・アレジと当時のトップドライバー。
体力的には厳しいレースが多かったが、体力をあまり必要としない雨のレースではドライビングの正確さで注目を集め、1989年雨のアデレードでは日本人初のファステストラップを記録した。
鈴木亜久里
参戦 | 1988-1995 |
所属チーム | ラルース ザクスピード フットワーク ジョーダン リジェ |
出走 | 88(64スタート) |
決勝最高位 | 3位 |
予選最高位 | 6位 |
ファステストラップ | 0 |
通算ポイント | 8 |
中嶋悟に次ぐ日本人2人目のF1フルタイムドライバー。
1988年全日本F3000でチャンピオンを獲得し、その年の日本グランプリでラルースからF1にスポット参戦を果たす。
翌年はザクスピードからフルタイムドライバーになるも、全戦予備予選不通過を喫するが、翌1990年にラルースに移籍すると日本グランプリで日本人初の3位表彰台を獲得したことはあまりにも有名。
その後はフットワーク、ジョーダン(スポット参戦)、リジェで参戦した。
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