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日産ヘリテージコレクション観覧記③プロトタイプマシン編

今回は日産へリテージコレクション観覧記の3回目。

前回まではスーパーGTや全日本GT選手権のマシンを紹介しましたが、今回は日産ヘリテージコレクションに保管展示されていたプロトタイプマシンを紹介します。

どこかの自動車メーカー最大手の会長と同じく日産のフォーミュラ嫌いは有名(フォーミュラEは電気に食い付いたみたいけど)で、F1や国内トップフォーミュラに参戦して来なかった日産は、特に1990年代まで、ル・マン24時間を頂点とするプロトタイプマシンに技術を注ぎ込んでいました。

ということで、日産ヘリテージコレクションに保管展示してあったプロトタイプマシンを、古い順から時系列で観ていきましょう。

R380 A-Ⅰ型(1966年 日本GP 優勝車)

ポルシェのような丸目のヘッドライトが凛々しいこちらのマシンは、プリンス自動車が日産合併直前に製作した、プリンスR380です。

R380のRはレーシングで、380はプリンス自動車の38番目のプロジェクトを意味していて、当時の関係者やファンはサンパーマルと呼んでいたマシンです。

展示されていたR380のA-Ⅰ型は、1966年に富士スピードウェイで開催された第3回日本グランプリで優勝したマシン。

全長、全幅ともに短く、全高も極端に低い小さなマシンなので、一見するとクラス優勝だと思えますが、れっきとした総合優勝のマシンです。

プリンス自動車は、同年日産に吸収されることが決定しており、最後の大規模レースでの勝利でした。

R380 A-Ⅱ型(1967年)

こちらは上の車両からボディスタイルを刷新したR380 A-Ⅱ型。

すでに日産がプリンス自動車を吸収して、日産R380 A-Ⅱ型となっています。

ボディ素材が完全FRP製に変更され、顔周りのデザインが可愛らしく変化しています。

R381(1968年 日本GP 優勝車)

1968年の日本グランプリ用に開発したR381は、オープンボディのプロトタイプマシンです。

前年から完全に印象が変わり、私の思う1960年代のマシンとはまさにこれ。

リヤウイングが中央で分割し、左右それぞれに稼働するのが特徴・・・DRSの元祖かも・・・。

このマシン、日産初の大排気量エンジンを搭載する予定でしたが間に合わず、急遽シボレー製エンジンを改造して搭載したそうです。勝利至上主義で、そのためならば何でもする時代だったのかも。

その甲斐あり、日産+シボレーは1968年の日本グランプリに勝利するのでした。

R382(1969年 日本GP 優勝車)

こちらがR381の後継R382。

前年優勝した日産ですが、前述の通りエンジン開発が間に合わず、シボレー製での勝利でした。

ということで、日産製大排気量エンジンでの日本グランプリ勝利を目指して開発したのがR382でした。

特徴だった可変式リヤウイングは禁止になりましたが、アルミスペースフレームにアルミモノコック、エンジンのストレスマウント化などを採用。結果、ライバルのポルシェやトヨタを上回り、ワンツーフィニッシュを飾りました。

ちなみにこのマシンは今年の夏に富士モータースポーツミュージアムで開催されていた『60’s富士日本グランプリ』の企画展で観た個体と同じだと思います。

R382(1969年 日本GP)

こちらは同年のグランプリでトラブルにより10位だった、エースナンバーの23号車。

この後紹介する1980年代から1990年代の日産製プロトタイプマシンはトリコロールカラーがアイデンティティーでしたが、当時はまだ日産のイメージカラーは無く、様々な色を施して参戦していたのですね。

また、現在のレーシングマシンでは当たり前のスポンサーロゴも、まだ無かった時代です。

R383

こちらは1970年日本グランプリでの優勝を目指して開発されたR383。

ラジエター位置がフロントからサイドに変更されたため、フロントのデザインが流れるような形状になりました。

しかし日産は『公害、安全問題を解決に注力する』として、この年の日本グランプリ不参加を発表。

その後のカンナムへの参加も見合わせたため、R380はレースに参加することなく退役し、幻のマシンとなりました。

流麗なフォルムにシルバーと濃紺のボディが実にカッコ良い1台でした。

GTP ZX-Turbo(1985年 IMSA)

一気に時代が新しくなり(とはいえ40年前のマシンですが)、こちらは1985年から1990年までアメリカIMSAのGTPシリーズに参戦したマシン、GTP ZX-Turboになります。

マシン開発はアメリカのエレクトラモーティブエンジニアリング(のちの日産パフォーマンステクノロジー)が担当したそうです。

私たち五十路世代が憧れた、まさに”ザ・プロトタイプマシン”のような佇まいが実にカッコよかったです。

R86V(1986年 ル・マン24時間)

こちらはグループC規定のプロトタイプマシン、R86Vです。

イギリスのレーシングコンストラクターであるマーチ製のシャシーに、日産製3.0L V6ツインターボエンジンを搭載したR86Vは、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(以下JSPC)に参戦し、同年のル・マン24時間に初出場しました。

こちらはそのル・マン24時間参戦時のカラーリング。カウルに書かれた『NICHI-RA』とは日本ラヂエーターで、のちのカルソニック→マレリです。

R88C(1988年 ル・マン24時間/JSPC)

このマシンは1988年のル・マン24時間に参戦したR88C。マーチ製シャシーに、日産独自開発のカウルデザインを施したマシンです。

1980年代から1990年代にかけての日産はブルー、ホワイト、レッドのトリコロールカラーがアイデンティティーでしたが・・・なぜフランス国旗なの?

もしかしたら、その後のフランスルノーとの提携を・・・いや、そんなことはないですよね。

その後R86VはJSPCでも活躍したのでした。

R89C(1989年-1990年 JSPC)

こちらは1989年のJSPCに参戦したR89C。

このマシンからシャシーがマーチ製からローラ製に変更されており、曲線基調が強くなり、フェンダー内側には大きなエアインテークが追加されたりと、だいぶ印象が変わりました。

R90CP(1990年 JSPC)

日産はJSPCで3連覇を達成するのですが、日本車が最初に王者になったのがこのR90CPです(それまではポルシェ962Cが5連覇)。

前年のR89C同様にローラ製シャシーを使用していますが、パーツの約70%が日産とニスモのパーツだったそうです。

F1ブームの影響で日本のモータースポーツが盛り上がって来た時代。当時はフォーミュラカーの全日本F3000、箱車のJTC、そしてプロトタイプのJSPCと様々なカテゴリーがあり、レースファンはさぞかし楽しかったことでしょう。

日本でもまた、プロトタイプマシンでのレースが復活しないかなあ。LMP2マシン、ヨーロッパで余っているでしょ??

R91CP(1992年 デイトナ24時間総合優勝車)

こちらはR91CP。

R90CPまではローラ製のシャシーを使用していましたが、R91CPからは完全日産製のカーボンモノコックに変更しています。

このマシンで参戦した1992年のデイトナ24時間では、長谷見昌弘、星野一義、鈴木利男の日本人トリオがステアリングを握り、日本人/日本製マシンとして初の総合優勝をした、記念すべきマシンです。

R92CP(1992年 JSPC)

こちらはJSPCで1991年と1992年のメイクス+ドライバーズチャンピオンを獲得したR92CP。

前述の通りR90CPで1990年シーズンも制しているため、日産は1990年から1992年まで3連覇を達成しました。

R390GT1(1997年 ル・マン24時間)

日産は1990年以降、ル・マン24時間への参戦を休止していましたが、1995年と1996年にGT-Rで参戦を再開しました。

そして1997年にGT1規定のこのR390GT1を開発してワークス参戦。R380シリーズにちなんだネーミングにしたことからも、日産の本気度が伺えます。

リザルトは23号車が総合12位(クラス5位)という不本意な結果でしたが、ブラックとレッドのカラーリングが非常に印象的で、個人的には非常に記憶に残る大好きなマシンでした。

そういえば、この頃タミヤのRCカーグランプリ参戦に没頭していて、このカウルが好きだったなあ。

R390GT1(1998年 ル・マン24時間)

こちらはR390GT1の1998年仕様。

ル・マン24時間でのワークス参戦復帰2年目となるこの年は、この32号車が総合3位表彰台を獲得し、日産にとってル・マン最上位の結果でした。

当時は多くの自動車メーカーがル・マンに参戦していた時代でしたが、その中での3位はとても価値あるものでした。

また30号車、31号車、33号車もそれぞれ5位、6位、10位という結果で、全マシンが10位以内でフィニッシュをするという、速さと信頼性の両方を備えた素晴らしいマシンでした。

でも、カラーリングが残念。カルソニックがメインスポンサーになったのなら、やっぱりカルソニックブルーにしなきゃ・・・ね?

翌年富士スピードウェイでフォーミュラニッポンを観戦しに行った時、このマシンがデモ走行をしてくれたことを思い出しました。

R391(1999年 ル・マン24時間/1999年 ル・マン富士1000km)

こちらは1999年のル・マン24時間参戦マシンのR391です。

GT1規定で設計されたR390GT1から一転、この年は重量面で有利なオープンボディのLMP規定のマシンnに変更しました。

2台がエントリーしたこの年の日産ですが、23号車が予選でクラッシュして決勝に参戦できず、22号車も7時間半後にリタイヤをして全滅となりました。

プロトタイプはレーシングマシンの中でも特に好きなのですが、オープンボディになった瞬間に、これほどまでにカッコ悪くなるのか、と個人的には思いますが、みなさんはどうでしょうか?

GT-R LM NISMO(1999年 ル・マン24時間)はやはり無かった・・・

その後、日産は2015年にGT-R LM NISMOというFFのマシンでトップカテゴリーに参戦をするまで、16年も待たなければなりませんでした。

ところで、そのGT-R LM NISMOは?

やっぱり、日産社内では参戦を無かったことにしているようで、日産ヘリテージコレクションにも保管されていませんでした・・・。

ということで、日産ヘリテージコレクションに保管されていたプロトタイプマシンは以上。次回は貴重なワンオフ車両や歴代のスカイライン/GT-Rを紹介しますので、よかったら下記のバナーからご覧ください。

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ABOUT US
大福
モータースポーツをこよなく愛す、セナプロ世代の四十代。 サーキット観戦デビューは、1996年フォーミュラニッポン第7戦の富士スピードウェイ。ど迫力のエキゾーストノートとタイヤの焼ける匂いを実感し、それまでテレビでしか観戦してこなかった事を悔やむ。以降、F1・WEC・スーパーGT・スーパーフォーミュラなどを富士スピードウェイ・鈴鹿サーキットを中心に多数観戦する。